新府城 shinpu-castle 山梨県韮崎市中田町中条上野

出構
城の外郭の一部を長方形に溝の中へ突出させた鉄砲陣地で、防御上最も弱いと見られる北正面に向けて、東西に≒100m隔てて平行に2本が築かれている。
馬出し
馬出しとは城門の前に築いて、人馬の出入りを敵に察知されぬよう、また城内を見通せないようにした土手(石垣)をいう。
馬出しは甲州流築城法の特色の構えだ。
城址の碑/本丸跡の藤武稲荷社/本丸曲輪には武田勝頼霊社碑/信州との国境である八ヶ岳を臨む/馬出し(左列)
東出構え/山県昌景・馬場信房・内藤昌豊らの供養柱/中央の土盛は二の丸と土塁虎口/南大手の虎口?(右列)


別名 新府中韮崎城 築城年代 天正9年(1581)
縄張・種別 ---/平山城(崖城) 築城者 武田勝頼
遺構 郭跡・堀・土塁.etc...
復原 ---
国指定 史跡
攻城年月日 2004/12/2


【構   え】
八ヶ岳の火山の泥流による七里岩の上にあり、南北600m・東西550mで外堀と本丸は標高差が80m、石垣は用いず高さ2.5mの土塁をめぐらす。
その地形を生かして築かれた城の特徴は城外から俯瞰されないことで、縄張りの特徴は北方に2基の出構を築き、鉄砲陣地とした点で、従来の城郭には見ることのできない工夫がある。
頂上の本丸を中心に西に二の丸、南に三の丸・大手・三日月堀・馬出し、北に出構・搦手口、東に稲荷曲輪・帯曲輪あり、北から東には堀がめぐらされている。
現在、史跡指定地区は23.87ヘクタール、外側には武将の屋敷跡と伝えられる遺構もある。

【歴   史】
天正9年(1581)武田勝頼が甲斐府中とし、城を七里岩の南端韮崎の要害に相し、武将・真田昌幸を普請奉行に命じて築かせた。(昌幸ゆかりの城=真田氏館上田城名胡桃城沼田城
さかのぼること、天正3年(1575)、長篠合戦(長篠城)で、武田勝頼が織田信長・徳川家康連合軍に大敗を喫すると、武田氏にかげりが見えはじめ、敗戦以来勝頼は休むひまなく国境の防衛に奮闘した。
天正6年には越後の上杉謙信が他界、西方の睨みがなくなり連合軍は武田氏を滅亡させる絶好の機会を得た。
上杉家で家督相続紛争「御館(おだて)の乱」が起こり、勝頼は上杉景勝の後押しをし勝利させると、父・武田信玄の代からの宿敵だった上杉氏と同盟を果たしたが、このときすでに上杉氏には勝頼を助ける力がなく、相模の北条氏政にも甲斐国が狙われて勝頼は徐々に追いつめられていく。そんな状況下での新府城築城であった。
2月に着工し、工事は昼夜を問わず行われ、9月にはほぼ完成した。
12月12日に祖父・信虎以来、≒60年間武田氏が拠点とした躑躅ヶ崎館を放棄してこの新府城に移った。
ところが翌天正10年3月3日、織田・徳川連合軍進撃の前になす術もなく、勝頼は新府城を焼き払い逃走し、3月11日天目山の麓、田野で全滅した。
同年6月、本能寺の変で信長が討たれると、徳川・北条両氏が甲斐の覇権を争いをはじめ、家康はこの城を改修すると本陣を置き、大軍を用いて若神子に布陣する北条氏直を翻弄し有利に導き、新府城の真価を発揮した。

photo:SPOOKさん


Back
Home