沼田城 numata-castle 群馬県沼田市西倉内町

本丸跡の太鼓櫓/本丸跡/西側の眺望(左列) 三の丸の土塁/西櫓台の石垣と石段/平八石(右列)

三の丸
東西≒380m・最大幅≒120mあり本丸・二の丸の南側に位置し、当時「侍屋敷」があったと考えられる。
天守
真田氏初代城主となった信之(信幸)が慶長年間(1596〜1614)に建造したと伝えられ、絵図面や古文書から規模は柱間で9間×10間(推定18m四方)の5重であったとされる。
幕府に提出された絵図によると、天守東の石垣は堀の底から8間もの高さがあり、屋根には千鳥破風(三角形の屋根)が多くみられ、最上階には高欄がめぐっていた様子がわかるという。
関東における5重の天守は江戸城以外では沼田城だけであったことや、天守付近から金箔瓦(金箔を張った瓦)もみつかっていることから、関東において沼田城は特別な城であったと考えられる。
西櫓台の石垣・石段
発掘調査によって発見された。
西櫓台(前方の小高い部分)に伴なうものであり、出土した瓦などから真田氏時代の遺構であろうと思われる。
天和元年(1681)5代城主・真田信利(信澄)の改易により、翌年には跡形もなく破却されたと伝えられていたが、壊されずに地中に埋められていた部分が、300年以上を経て再び往時の姿を現した。
発掘部分の石垣・石段は全長27.5m・石垣の高さ0.8〜2.0m・石段の幅2.4m。
平八石
沼田平八郎景義の首級をのせた石。
平八郎は沼田城を築いた沼田氏12代顕泰の側室の子で、摩利支天の再来とまでいわれた勇将。
顕泰は城を嫡子朝憲に譲り、平八郎を連れ川場村天神城へ隠居したが、側室とその兄・金子美濃守らにそそのかされて、永禄12年(1569)正月、朝憲を呼び寄せて謀殺。そのため顕泰、平八郎は沼田勢に追われて会津へ逃れたが、平八郎は12年後、沼田城奪還の兵を挙げ沼田に迫った。
真田昌幸は戦っては平八郎に勝てないと知り城中にいた金子美濃守をだました。貪欲な美濃守は己が栄進したいため平八郎に、必ず城主にしてやるから武装を解きこっそり城中に入るように誘い入れて殺害した。
天正9年、42歳であった平八郎の首は実験のあとこの石の上に置かれたという。


別名 蔵内城・鞍打城・霞城 築城年代 天文元年(1532)
縄張・種別 ---/崖端城 築城者 沼田顕泰
遺構 天守台・櫓台・曲輪・石垣・堀・土塁
復原 模擬=太鼓櫓
国指定 ---
攻城年月日 2003/10/24


【歴   史】
沼田城は、天文元年(1532)に三浦系沼田氏12代万鬼斎顕泰が柳町の幕岩城(沼田城から北東1km)より移り約3ヶ年の歳月を費やして築いた。
永禄9年(1566)顕泰は城を嫡子朝憲に譲り、側室の子・平八郎を連れ川場村天神城へ隠居したが、平八郎を城主にしたいため、同12年正月、朝憲を呼び寄せて殺してしまった。顕泰と平八郎は会津へ逃げたので、上杉謙信が柴田右衛門尉を城代とした。
天正6年(1578)謙信死去。代って小田原の北条氏政・氏直父子が支配。
天正8年(1580)6月、武田勝頼の武将・真田昌幸が入城し城の規模を広げた。
翌9年3月、平八郎が沼田奪還のために来攻したが、昌幸の策に乗った金子美濃守に謀殺され沼田氏は滅亡した。
天正10年織田信長は滝川一益を城代にしたが、6月信長が本能寺で討たれ、滝川氏が去ったあと真田一族の矢沢頼綱が城代となる。
天正17年(1589)真田氏が北条氏と和睦、城は北条氏のものとなったが、真田の所領である名胡桃城を掠奪したため豊臣秀吉は怒って小田原の北条氏を攻撃し、沼田を昌幸に与え、嫡子・信幸が沼田領2万7千石の初代城主となり、慶長年間に5層の天守を建造した。
天和元年(1681)に5代城主・信利が悪政を理由に徳川幕府から追放、3万石の領地を没収され、翌2年1月に幕府の命により破壊された。
以来、5人の代官が在任。
元禄16年(1703)本多正永が旧沼田料177ヶ村のうち46ヶ村城つき領地2万石の藩主として入封し、幕府の交付金で三の丸に屋形を建て3代が治めた。
次いで、享保17年(1732)から11年間、黒田直邦、正純の2代。
寛保元年(1742)土岐頼稔(寺社奉行・大阪城代・京都所司代・老中を歴任)が駿河国田中から移封され、以来土岐氏12代・127年間の居館となったが、廃藩置県の折り屋形も取り壊された。

photo:あられ


Back
Home