名胡桃城 nagurumi-castle 群馬県利根郡月夜野町下津城平

本丸跡に建つ城址の碑/二の丸堀/本丸堀/袖曲輪(左列)
喰違い虎口跡と二の丸虎口跡/本丸跡/ささ曲輪の土囲/物見曲輪より展望(右列)


別名 --- 築城年代 天正7年(1579)
縄張・種別 連+並郭式/崖端城 築城者 真田昌幸
遺構 曲輪跡・堀・土塁 etc
復原 ---
国指定 ---
攻城年月日 2003/10/24


【構   え】
利根川・赤谷川の合流点の南西段丘上に位置した崖端城であり、河川との比高は50mである。
両側が断崖で尖鋭に突出する尾根を掘り切った屋根式山城の様相をもつ並郭式構造を呈していて、その南西方向には平城部が続いている。
城の南1kmには190m高く富士山(天狗山)があり、のろし台として抑えられていたと思われる。
当時の建物は、北条氏の文献にあるように、他の戦国時代城館址における戦略上拠点と同様、粗末な掘っ立て小屋であったと思われる。

【歴   史】
明応元年(1492)頃、沼田城主・沼田景久は、その子息を名胡桃・小川・川田・石墨の各地に配し領地拡大を図ったが、まだこの地に城郭は築かれていなかった。
16世紀半ばになり、利根沼田地方は上杉氏・北条氏とう入り乱れ、戦乱の渦中にあった。
天正6年(1578)に沼田城が北条氏の手に落ちたことにより、利根川左岸は同氏の勢力圏となった。
これに対して上杉・武田方の真田昌幸は、渡河点警護と沼田城奪取の前線基地として、利根川右岸にこの城をはじめ諸城を築いたものと思われる。また、この城の城代は、鈴木主水重則であった。
天正7年(1579)に、北条勢は2度に渡りこの城とうを攻めたが、いずれも敗退している。しかし、その翌年、真田勢はこの城から攻め出して、難なく沼田城とう攻略している。
その後、当地方の大部分を真田領としてほぼ手中に収め、この城は岩櫃城と沼田城の中継基地となっていた。
また、天正14〜15年(1586〜88)の間、この城とその南側の山頂にある北条方の権現山(榛名峠)城は、再三再四対立していて戦闘が絶えなかった。
天正17年(1589)に、豊臣秀吉は北条氏の上洛の条件として、真田氏に替地をあてて沼田城とうその一帯の領地を北条氏へ渡したが、なぜかこの城だけは真田氏の要望によりその所領として残された。
北条方の猪俣邦憲らはこれを不満として同年11月にこの城を攻略した。たばかられた鈴木主水は、沼田において自害している。
豊臣秀吉はこの報を受け激怒して、以前からの不信の念と相まって北条氏に宣戦、その翌年同氏を攻め滅ぼした。
この事件に関しては問題が複雑であるが、いずれにしてもこの城は、豊臣氏に天下統一をもたらし、当地方における乱世に終止符を打つことになった、小田原征伐勃発の口火を切ったことにより、記念すべき重要なものである。

その後、当地方一帯は真田領としてその支配下にあったが、真田氏の沼田城安泰により廃城になったものと考えられる。

photo:あられ


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