別名 |
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御屋敷 |
築城年代 |
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永禄年間(1558〜70) |
縄張・種別 |
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中世豪族居館形式/平城 |
築城者 |
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真田幸隆・信綱 |
遺構 |
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曲輪跡・石垣・土塁 |
復原 |
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国指定 |
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攻城年月日 |
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2004/3/14 |
【構 え】
この館跡は、西側に開いた本原扇状地の奥に位置し、真田氏の城跡群(東北に真田本城・東に天白城・北に横尾城と曲尾城・西に戸石城・南西に矢沢城とうとう)が取り囲んでいることから堅固な館であったと想像される。
周囲520m四方を土塁で囲み、外周には堀がめぐらされていたらしい。
北側を流れる大沢川が天然の堀を形成していて現在も当時の様子がうかがえる。
南に大手門、北に搦手門を配し、南東には小さな東門があった。
土塁の内側は、2段の曲輪から構成され、東曲輪(上段)には真田昌幸が上田へ移る際に勧進したといわれる「皇太神社」が祀られている。
西曲輪(下段)には北西隅に「厩」と称される一画がある。
【歴 史】
真田氏が天正年間(1573〜92)に上田城(尼ヶ淵城)を築城する以前、幸隆(信綱・昌幸の父)・信綱(幸隆の長男で武田信玄・勝頼の家臣となる)の代に使われていた館だと考えられ、築館年ははっきりしないが永禄年間ころと思われる。
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