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古今の英雄をご紹介


日本武尊<yamatotakeru-no-mikoto>
□石川県金沢市兼六園
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□古事記・日本書紀伝承上の王族武将

第12代景行天皇の皇子で幼名を小碓尊(おうすのみこと)といい、「日本書紀」に”幼少にして雄略の気あり、壮年に及んで容貌魁偉、身1丈で力強し”とある。
景行天皇27年に16歳で熊襲(くまそ)平定を命じられる。このとき叔母の倭姫命からもらった衣装で少女の姿に変装し、熊襲健(たける)兄弟の酒宴に紛れ込み成敗した。皇子はさらに各地の神を征し、出雲国では出雲健を詐術で討つと西方平定を成し遂げて天皇に復命した。
同40年今度は東国へ出兵。途中、伊勢に詣でて倭姫命に「天皇(すめらみこと)、すでに吾(われ)を死ねとや思ほすらむ」と心情を訴えた。西征では軍功をあげ、やっと都に帰ってきたら休む暇もなく東国平定に遣わされるというのは、やはり自分など死んでしまえばいいと思われているとしか受け取れない、というのだ。
話しはこの後、苦難を乗り越え白鳥伝説へと続く。
相模国焼津では国造(くにのみやつこ)に欺かれ、野火をはなたれ焼き殺されそうになるが、かねて叔母にもらった草那芸剣(くさなぎのつるぎ)と袋の中の火打ち石により難を逃れた。また走水(はしりみず)の海−浦賀水道(東京湾口)−では渡り神による暴風雨にあい、后の弟橘比売(おとたちばなひめ)が身代わりに入水し、無事に房総半島に渡ることができた。帰路、足柄山(碓氷峠という説もあり)で彼女を偲び「吾妻(あづま)はや」−ああ、わが妻よ−と嘆いた言葉は有名だ。甲斐・信濃を経て尾張では、かねてより約束していた美夜受比売(みやずひめ)のところへ立ち寄り、草那芸剣を置くと伊吹山の神を退治するといい山に登った。神の降らす雹(ひょう)に打たれ霧にまかれ、ふらふらになりようやく下山するが、三重村に着いたときには足が「三重」に曲がるほど膨れ上がり、ついに能褒野(のぼの)で故郷を目前にしての倭をたたえる歌を詠み亡くなった。
「倭は、国のまほろば たたなづく青垣 山隠れる 倭しうるわし」
死後の皇子は”八尋白智鳥(やひろしろちどり)”−大きな白鳥−となって天高く飛び去り、河内国志幾(しき)にまで到達したので、墓・白鳥御陵を築いたところ、さらに天の彼方へ舞い上がって行方知らずになってしまったという。
photo:荒賀源外さん
山中鹿之介<shikanosuke yamanaka>
□島根県安来市広瀬町広瀬 月山冨田城
□天文14?−天正6(1545?-78)
□戦国・安土桃山時代の武将 山中幸盛

尼子家臣団の中老格である山中満幸の二男。病弱だった兄に代わり家督を継ぐ。永禄9(1566)尼子義久が毛利氏に降伏すると浪人。'69京都東福寺で僧籍にあった勝久を擁し、織田信長大友宗麟と連携のもとに隠岐に挙兵、尼子氏の旧領出雲を回復。元亀2('71)吉川元春に出雲新山城を陥され捕らえられたが京へ脱出する。天正1('73)勝久とともに因幡に入ると翌'74鳥取城を陥落させた。※勝久は尼子経久の二男国久の血筋。
'75播磨三木城の別所長治をたより、'77羽柴秀吉の中国平定に従い、秀吉に播磨上月城の守備を命じられた。'78長治が毛利に通じ、秀吉の兵が三木城包囲に分けられたすきに、上月城は元春の重圧をうけて降伏。勝久は自殺、鹿之介は投降した。安芸に移送される途中で元春を暗殺する謀(はかりごと)があると疑われ、備中合の渡で殺され。尼子氏再興は挫折した。
photo:ばつまるさん(上)
photo:たかしPart3さん(下)
山内一豊<kazutoyo yamanouchi>
□高知県高知市丸ノ内 高知城
□天文15−慶長10(1546-1605)
□安土・桃山時代の武将

尾張守護代岩倉織田家の家老で黒田城の城代を務める山内盛豊の子。
豊臣秀吉に仕え、天正1(1573)近江長浜に400石、'77播磨に2千石を与えられる。'81織田信長の命による京の馬揃えでは名馬を購入して参加し、信長から賛辞を得る。'82黄母衣衆となり播磨国印南郡で500石を加増。賤ヶ岳合戦や小牧・長久手合戦で戦功を挙げる。'85豊臣秀次に代わり長浜城主、加えて秀吉直轄領地の代官にも就任。'90小田原の役に参戦後、徳川家康の関東移封に伴い、掛川城主となると遠江一宮1万石の秀吉直轄領地の代官を兼任。
慶長5(1600)関ヶ原合戦では東軍に参加し戦功あり。土佐20万石に封じられた。
一豊の妻<千代-見性院 chiyo>を参照。
photo:たかしPart3さん
結城秀康<hideyasu yuki>
□福井県福井市大手3 福井城址
□天正2−慶長19(1574-1607)
□江戸前期の大名 徳川家康の二男 越前国福井藩主

本多重次に養育される。天正12(1584)小牧・長久手の合戦の講和に際し羽柴秀吉の養子となる。'90下総の結城晴朝の養子となり10万1千石を領する。
慶長5(1600)関ヶ原合戦では宇都宮で上杉景勝軍を抑えた。その功により越前国67万石に封じられ福井(北庄)城主となる。のちに松平姓に復す。
photo:ばつまるさん
由利公正<kimimasa yuri>
□福井県福井市大手3
□文政12−明治42(1829-1909)
□幕末・明治時代の政治家 福井藩士の子

横井小楠(政治家・思想家)に財政を学び、橋本左内らと協力して国事に奔走したが、安政の大獄にあたり帰藩し、藩政改革に従事、主に財政を担当した。従来の藩専売に対して重商主義的な政策を展開して成功。明治維新に際しては参与となり、会計官知事として会計基立金の調達、太政官札の発行など初期の財政・金融政策に関与。明治2(1869)政策への反対が大きく辞任し、福井藩政にあたった。'71東京府知事となり、'75岩倉遣外使節に加わった。この後は国政の場で活躍。
photo:ばつまるさん
山岡鉄舟<tessyu yamaoka>
□岐阜県高山市 高山陣屋
□天保7−明治21(1836-88)
□幕末・明治前期の剣客・政治家

飛騨高山の郡代であった旗本小野朝右衛門高福の子。幼年より剣術を好み、江戸の千葉周作の門に入り、のち無刀流を開き、春風間館という道場を設立して多数の門人を集めた。やがて幕府講武所剣術心得となる。文久2(1862)浪士取締役となり、高橋泥舟らとともに江戸の治安維持にあたる。明治1('68)3月、官軍が江戸に迫ると、勝海舟の使者として駿府に赴き、西郷・勝会談を周旋して江戸城明渡しへの道を開いた。'69新政府に仕官し静岡県権大参事。さらに茨城県参事。伊万里県知事を歴任、明治天皇の侍従となった。
photo:SPOOKさん


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