別名 |
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久米ヶ城・湊山城 |
築城年代 |
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天正19年(1591) |
縄張・種別 |
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---/平山城 |
築城者 |
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吉川広家 |
遺構 |
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天守台・曲輪跡・石垣etc... |
復原 |
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国指定 |
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攻城年月日 |
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2008/早春 |
【構 え】
米子城は伯耆(鳥取県)の西にあり、出雲(島根県)との国境に位置する。標高90mの湊山山頂を削平した本丸跡の東端に大天守台、南端に副天守台の石塁と礎石が残されている。
【歴 史】
前身は文明3年(1471)に、出雲の京極氏に対する国境の城として、伯耆の守護であった山名教之の配下により飯山砦が築かれた。大永4年(1524)、尼子氏に攻略されたが、尼子氏が滅亡すると、天正6年(1578)、毛利一族の吉川元春が米子を支配下におさめ、古引吉種を守将とした。天正19年(1591)吉川広家(元春の三男)が月山富田城に入ったが、山城は不便なので米子湊山に新城を構築した。
慶長5年(1600)、関ヶ原合戦後広家は岩国(岩国城)へ移り、中村一忠(豊臣政権三中老のひとり中村一氏の子)が入封。堀には中海から海水を引き込み浮城の体をとり、本丸や二の丸とうとうに独立させた機能を整えさせた。また、吉川氏の時代に本丸に聳えた4重の天守があったが、一忠はその横に5重の大天守を建てた。工事責任者は家老の横山内膳であったという。慶長15年(1610)、一忠亡き後、継嗣なく中村氏は改易となる。
美濃黒野(岐阜県)から加藤貞泰が入城。元和3年(1617)貞泰が伊予大洲(大洲城)へ移封。翌年、因幡・伯耆両国の領主となった池田光政が鳥取城へ入ると、同族の池田由之が城代となる。寛永9年(1632)光政は岡山(岡山城)の池田光仲と交替。光仲の家老荒尾利成が入城。以後荒尾氏が230年間11代在城。
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