大洲城 ohzu-castle 愛媛県大洲市三の丸

4層4階の天守と高欄櫓と台所櫓/台所櫓は1階の3分の1が土間になっていて炊事ができる/苧綿(おわた)櫓は1階に窓つきの袴腰の石落しがある(左列)
天守内部は初層から4層に貫通する心柱をもつ/高欄櫓・高欄は本来天守最上階につけられる/南隅櫓は旧三の丸にあたる(右列)


別名 比志(ひじ)城 築城年代 元弘元年(1331)
縄張・種別 梯郭式/平山城 築城者 宇都宮豊房
遺構 本丸跡=天守台・台所櫓・高欄櫓 二の丸跡=苧綿櫓 三の丸跡=南隅櫓
復原 復元=天守
国指定 重文=上記櫓4基
攻城年月日 2001/6/28・04/11/05


【歴   史】
鎌倉時代前期に反平氏の旗を挙げ瀬戸内海を転戦した河野通信とも、元弘元年(1331)伊予(愛媛県)の守護宇都宮豊房の築城とも伝えられる。
大津地蔵ヶ嶽に建てられたこの城、肘川の洪水で度々石垣や建物が流され、そうとうな難工事であったという。
宇都宮氏が230年居城。8代に亘り、長宗我部氏や西園寺氏とうと戦闘を繰り返す。
永禄11年(1568)河野・毛利の連合軍に攻められ落城。その後、宇都宮氏の旧臣大野氏が一時在城するが、天正12年(1584)豊臣秀吉の四国平定で秀吉の命を受けた小早川隆景の大軍に囲まれ1ヶ月後に開城。
天正13年から15年まで戸田勝隆が居城。
文禄4年(1595)藤堂高虎が宇和島城主になるとその属城となる。
慶長14年(1609)淡路洲本から脇坂安治が5万3千石で入城、大改築で4層4階の天守を築いた。
元和3年(1617)大坂の陣の戦功により加藤貞泰が伯耆(鳥取県)米子から入封し、「比志城」が「大洲城」と称されるようになった。
以後、加藤氏が12代250年在城。

【攻城記】
-第2次遠征-
大洲城はすっかり変わってました。以前の櫓が単独で建ってた頃の画像と比べると華やかさが全然違います。天守閣も櫓と繋る事で引き締まって見えます。
櫓も単独だと寂しげな印象でしたが、今では別人の様です。

photo:ばつまるさん


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