岡山城 okayama-castle 広岡山県岡山市丸の内

天守/石垣/宇喜多秀家のころの石垣(左列)
月見橋/月見櫓の石垣(右列)

月見櫓の石垣
池田忠雄が1620年代に築いた石垣で、上部に月見櫓が建つ。隅部は表面を特に平に整えた方形の割石を配し、その長辺を交互に振り分けた算木積みとなっている。石材は白色度の強い花崗岩で、瀬戸内海に浮かぶ犬島で切り出されたものと見られる。

天守と塩櫓/不明門(左列) 天守台の石垣/鯱(右列)

天守閣・塩櫓
5重6階の復興天守。戦国初期の様式でろう城戦に適した造りで、不等辺多角形(5角形とも)という珍しい形の天守台。(安土城は不等辺八角形)


別名 烏(う)城 築城年代 正平8年(1353)
縄張・種別 梯郭式/平山城 築城者 神氏
遺構 石垣・堀・月見櫓・西の丸西手櫓
復原 復興=天守・不開門多聞渡櫓
国指定 特別名勝=後楽園 重文=月見櫓・西の丸西手櫓
攻城年月日 2001/8/12・2009/5/吉日


【構   え】
”烏城”の名は、建造物外壁面の下見板が柿渋と瓦墨で黒く仕上げられ、破風内の木連格子も黒く塗られていることに由来する。山陽路では姫路城の”白鷺”に対抗する黒い城。
旭川が蛇行する丘の上に本丸、西側の石山丘陵を西の丸、その南側を二の丸とする構え。
天守外観は大入母屋を二重に、その上に望楼をのせ3重とし、5層6階で初重2層の主殿建築の上に建物が組み重なる様式。また、居住空間もありろう城戦に備えてある。
貞享4年(1687)池田光政の子綱政の代に回遊式城郭庭園が、本丸の背後に造られた。
日本三大庭園に数えられる「後楽園」である。

【歴   史】
正平8年(1353)この地で戦死した神高直の祖、神氏(南北朝の中心人物である名和長年の一族)が創築といわれる。
大永年間(1520)国人の金光氏が在城したが、この地方は松田氏→浦上氏→宇喜多氏と勢力が移り変わり、元亀元年(1570)城主金光宗高はとうとう宇喜多直家に謀殺されてしまった。
天正元年(1573)直家は亀山城(岡山市)から居城を移し、従来の城郭を壊して新たに城を築いた。慶長2年(1597)直家・秀家父子により完成。
その後、直家は織田信長の家臣である中国地方担当の羽柴秀吉に、宇喜多家の運命をゆだね亡くなった。
天正18年より秀吉の勧めで大修築工事開始、秀家が朝鮮出兵に参陣したので中断した時期もあったが、慶長2年(1597)に完工した。
慶長5年(1600)関ヶ原合戦で西軍の主力として活躍した秀家であったが、敗戦の武となり28歳で八丈島へ配流されてしまう。(55年後に亡くなった)
その後、関ヶ原合戦で西軍を裏切り東軍を勝利に導いた小早川秀明が入城し、さらに城郭を拡張させたが、同7年跡継ぎがなく小早川氏は断絶。
同8年に池田忠継が城主になるが、幼少(5歳)のため兄の利隆が後見となる。忠継病死の後、弟の忠雄、忠雄の嫡男光仲と家督を継いだが、光仲は3歳と幼かったので鳥取城主池田光政との間で領地替えとなった。
以後、池田氏10代237年在城。

photo:shing02さん(上)/ばつまるさん(下)


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