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桜田門−皇居外苑
 大手門−二の丸 本丸界隈 ぐるっとお濠
明暦の大火(1657)、通称振袖火事で天守閣が焼失したあと、天守閣代わりに使われていたのが3層の富士見櫓だ。
赤穂浪士の討ち入りの発端となったことで知られる松の大廊下跡だ。

浅野内匠頭長矩の吉良上野介義央への刃傷事件は元禄14年(1701)に起こった。
廊下に沿った襖戸に松と千鳥が描かれていたのが名前の由来。
江戸城では2番目に長い廊下で、畳敷きの立派なものであった。
石室といわれ、20平方メートルほどの広さ。

当時大奥納戸の脇にあったので、非常際には大奥の調度品を納めたのではないかという説がある。
本丸の西北に天守台跡(写真上)がある。

底辺一辺が≒40m、高さは≒10mあり、慶長11年(1606)藤堂高虎が縄張りをし、本丸増築と合わせ5層の完成。
明暦の大火で焼失したのちは再建されず、天守台跡だけが残った。
本丸の北側に位置する北桔橋門(きたばねばし)は、正面に天守台跡が見える。

門へ通じる北桔橋(写真上)は橋をはねあげて交通を遮断することができた。
この辺り乾濠・三日月濠はかなりの深さがあるという。

ここも桜田門や大手門と同様、高麗門と渡櫓門で桝形を形成していたが、現在高麗門だけが残っている。

北桔橋門(写真下)は城内から見たところ。
準備中 北桔橋門からいったん北の丸へ進み、紀伊国坂を下ると、内曲輪内に15かけられていた橋のひとつ竹橋がある

道灌の頃は竹で編んだ橋がかけられていたのが名の由来。
現在は平成5年の改修工事により、シックな色の御影石造りでアーチ型橋がかけられた。
この美しい姿は、やはり本丸北側に位置する平川門と、大手濠にかかる平川橋
太田道灌の時代は「平川口」といい、冠木門であったが、徳川家康が枡形門に改修した。

手前に高麗門、奥の大きな屋根が渡櫓門で桝形の様子がよくわかる。

江戸城の裏門にあたり「不浄門」ともいわれていた。
photo:シリウスさん
photo:荒賀源外さん(上_2葉)


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