別名 |
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砥石城 |
築城年代 |
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不明 |
縄張・種別 |
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蓮郭式/山城 |
築城者 |
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不明 |
遺構 |
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石積み・堀切り |
復原 |
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国指定 |
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攻城年月日 |
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2007/初夏 |
【構 え】※現地案内板より
東太郎山の一支脈が、神川に沿って南方に突出している高い尾根に構築され、本城を中心に北に桝形城・南に砥石城・西南に米山城を配した堅固な蓮郭式山城で、総称して戸石城(砥石城)と呼ぶ。
<本城>
砥石城全城で最も広大。最上段の本郭から南へ二の郭・三の郭と続き、その東下または東南方に四の郭・三日月形郭・帯部とう郭群の遺構をよくとどめている。本城の東南は小さな谷で、これを登る両側には小段郭が麓まで、幾重にも続いており、登城口(大手)とみられている。
<桝形城>
北方最高所標高800mにあって、自然の山頂を利用している。郭の西方入口に4uの枡形があるのでこの名がついた。郭は長方形で、手前に半月形の段郭が2つある。
<砥石城>
本城の南に連絡しており、北下りの鞍部に幅9mの深い堀切がある。本郭は方20mの削平方郭で、周囲の展望は実によい。
砥石城は村上・真田氏が戦略上重要視し、また重要な役割を果たしてきた城である。規模が大きく、四要害を一体として構築し、しかも居館としても用いられた極めて特色ある貴重な史跡である。
【歴 史】
天文17年2月、上田原(現:上田市上田原)で武田信玄(晴信)軍と村上義清軍が激突。板垣信方、甘利虎泰といった有力武将を失い、武田勢は大敗を喫した。これを「上田原合戦」という。天文19年8月、態勢を整えた武田軍は戸石城(もとは地元の豪族・海野氏の属城であった。義清が奪い当時拠点として利用していた)へ攻撃を開始。一ヶ月にわたり攻防をくりひろげたが、攻略することかなわず武田勢は撤退することとなった。しかも村上勢の激しい追撃にあい総崩れとなる。「戸石崩れ」と呼ばれる。
天文20年5月、信州真田郷(真田氏館)を本拠とする武田氏の客将・真田幸隆が仕掛けた戸石城への招降活動が成功。独力で城を攻略。天文22年、力を失った義清は居城の葛尾城(現:埴科郡坂城町)も落とされ、上杉謙信を頼って越後へ落ちていった。
天正10年(1582)、武田氏が天目山の露と消えると、幸隆の三男・昌幸は戦国大名として自立。千曲川のほとりに上田城を築き拠点とし、戸石城を詰の城として活用。天正13年、徳川家康との戦いでは昌幸の長男・信之が入り、背後を固めた。
家督を継いだ信之が松代城に転封するにあたり、元和8年に廃城となったという。
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