鹿野城 shikano-castle 鳥取県鳥取市鹿野町鹿野

西の丸/二の丸出丸/本丸と虎口/幸盛寺(kousei-ji)にある山中鹿之助の墓(左列)
城山天守台/堀と城山/本丸(右列)

西の丸御殿跡
鹿野城址の山城部分の曲輪の中で一番広い曲輪。入口付近に井戸があったといわれる。西半ばには南北七間半(≒16M)東西八間(≒17M)に礎石の配列が残っている。これは初代藩主・亀井茲矩の隠居所の跡といわる。
天守台跡
天正9年(1582)気多郡を拝領し鹿野城主となった亀井茲矩は、慶長5年(1600)関ヶ原合戦において東軍に組し、高草郡を加封され3万8千石となる。2代政矩のとき5千石を加え4万3千石となった。
このころ城の大改修が行なわれ、標高150Mの城山山頂に天守台を築いた。現代の天守台跡に10M四方の礎石列、その外側2Mに14M四方の外側線と、その基底部に根石が残っている。「鹿野故事談」によると本瓦葺き入母屋造り三層の高楼が天に聳えていたという。


別名 志加奴城・王舎城 築城年代 不明
縄張・種別 ---/平山城 築城者 志加奴(shikanu)氏
遺構 曲輪跡・櫓台・石垣・掘etc...
復原 ---
国指定 ---
攻城年月日 2007/4/3


【歴   史】
志加奴氏歴代の居城であったが、天文12年尼子氏に攻められて落城。その後、因幡守護家山名氏が、伯耆の毛利勢や鳥取城の武田高信に対抗し居城とした。小寺、野村、三吉、進藤氏とうとう城主が交代。
天正年間のはじめは毛利氏の属城であった。天正8年(1580)羽柴秀吉の鳥取城攻めで攻略され、亀井茲矩が城番となり、翌年城主に昇格。亀井氏はもともと出雲国尼子氏の家臣であったが、尼子氏復活を果たせずに、織田信長を通して秀吉に従っていたのだ。
関ヶ原合戦後に大改修を行なわれ、仏教思想に基づき「王舎城」と称す。また「オランダ櫓」・「朝鮮櫓」といった名が朱印船貿易を試み南蛮貿易を夢見た茲矩を現す。1617年子・政矩のとき津和野(津和野城)へ転封。
松平新太郎光政の家臣・日置豊前守が入城したが、やがて一国一城令で廃城となる。その後、松平輝澄がこの地に左遷され、山麓に20余年住んだという。

【攻城記】
このお城跡はなかなか良かったですよ。土曜日に鳥取から西へ40km程いったところにある倉吉市で仕事があり帰りに寄ってきました。
土曜は台風みたいな暴風で城山の頂上ではちょっと身の危険を感じちゃいました。

photo:にゃごりんさん


Back
Home