津和野城 tsuwano-castle |
島根県鹿足郡津和野町城山 |
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藩邸跡
現・津和野高等学校、嘉楽(からく)園の庭・物見多聞櫓・馬場先櫓が現存する。 |
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馬場先櫓は麓の藩邸跡/卅間台(さくまだい)跡/大岡家老門の奥は町役場(左列)
織部丸/卅間台門跡(右列) |
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別名 |
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三本松城・蕗(ふき)城 |
築城年代 |
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永仁3年(1295) |
縄張・種別 |
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---/山城 |
築城者 |
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吉見頼行 |
遺構 |
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天守台・櫓・曲輪跡・石垣 |
復原 |
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国指定 |
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史跡 |
攻城年月日 |
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2002/4/1 |
【構 え】
標高367mの霊亀山上に位置する。
石垣が重なり、本丸跡の三十間台を最高位とし、天守台から北側へ二の丸・太鼓丸、東側と西側に三の丸、北側に出丸の織部丸と広大かつ複雑な構え。
【歴 史】
永仁3年(1295)、鎌倉時代・元寇の役のおり、石見国(島根県)において海岸防備で戦功のあった吉見頼行が築城、「三本松城」と称した。
吉見氏は”蒲冠者(かばのかんじゃ)”こと源義朝の6男・範頼の子孫といわれる。
天文22年(1553)大内義隆を破り勢いに乗る陶晴賢との戦で津和野城を持ちこたえさせる。やがて晴賢は滅亡、中国地方は毛利の支配になると吉見氏は毛利氏の重臣となった。
14代広行が関ヶ原合戦で主家である毛利輝元に従ったため領土を没収。
慶長6年(1601)坂崎直盛が3万石で入封、城の大改修行い山上に壮大な石垣を築く。
直盛は備前国(岡山県)の宇喜多氏一族で、”宇喜多左京亮”といったが、当主の秀家と悶着を起こし、徳川家康に仕えてから”板崎”と改姓したのだ。あれ?坂崎直盛って...そう、あの出羽守なのだ。真意は定かではないが物語では、大坂の陣で家康が
「かわゆい孫のお千(豊臣秀頼の正室)を無事に救出した者に嫁にやるゾ」
といったとかいわなかったとか...。
直盛が助け出したのだが1万石の加増でお茶を濁され、
「千姫を嫁にくれるっていったぢゃないか!!!家康のウソつき!」
大いに怒り、そして男前の本多忠刻に嫁す千姫の花嫁行列を襲った罪で改易された...とか。
元和3年(1617)因幡国・鹿野城より亀井政矩が入封。
山麓に館を設け、その後亀井氏が250年間在城。
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photo:ばつまるさん |
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