■攻城年月日
2012/吉日
【歴 史】※案内板より
永亨年間(1430頃) 大内盛見により築城される。
永禄年間(1560頃)
毛利元就の領有となり、杉七郎忠重が城番となる。
天正年間(1580頃) 秋月氏の隠居城となる。
天正15年(1587)
豊臣秀吉は、秋月氏を攻略した後、早川主馬正を城番として居城させる。
慶長5年(1600) 黒田六端城の一つとなり、後藤又兵衛が城主となる。
慶長11年(1606) 後藤又兵衛は、出奔し、後の元和元年(1615)大坂夏の陣で討死する。
同年
母里太兵衛が益富城主となる。
元和元年(1615) 母里太兵衛が、病死する。
幕府より一国一城令が発布され、黒田の本城を残し、六端城は、ことごとく破却される。益富城廃城となる。
一夜城伝
天正15年(1587)豊臣秀吉は、30万の軍勢とともに
小倉城に入り、4月1日には、秋月攻略の火蓋が切られた。秋月二十四城のひとつ豊前の
岩石城を1日で陥落させた豊臣の軍勢は、怒濤のごとく大隅の町に押し寄せた。岩石城落城の知らせを受けた秋月種実は、種長の守る古処山本城へといち早く逃れた。秀吉は、まず嘉麻村・穂波の村々にかがり火を焚かせた。次に、大隅町民に命じて、街中の戸や障子を益富城へと運ばせ、一夜にして仮城を築いた。その光景を前にした秋月父子は驚き、戦わずして降伏した。秀吉は、協力した大隅町民に対し愛用の陣羽織と佩刀を与え、お墨付きをもって永代貢税免除した。