函館五稜郭 hakodate-goryokaku 北海道函館市五稜郭町
hakodate-goryokaku photo

城郭は欧羅巴式の稜堡式(西洋式要塞)5つのV字形の堡頭(ほとう)をもった星型の城/旧函館(当時は箱館)奉行所の玄関(左列)
碧血碑/函館市の夜景(右列)

陵保式縄張
函館五稜郭・函館四稜郭・戸切地陣屋(旧松前藩)・田口陣屋(信州大給藩)・品川台場(東京港区)がある。


別名 亀田役所土塁 築城年代 安政4年(1857)
縄張・種別 陵保式/平城 築城者 徳川幕府
遺構 石垣・堀・土塁
復原 ---
国指定 特別史跡
攻城年月日 2002/9/20


【歴   史】
安政2年(1855)、松前藩の領地であった函館地方は、前年の神奈川条約によって、函館が開港されることになり幕府直轄領となる。
対露西亜(ロシア)の関係から奉行所が置かれ、立待(たちまち)・山背(やませ)・矢不来(やふらい)とうに台場が築かれた。
安政4年、外国から侵略を受けた場合を考えて、函館の港と市街地を守るため亀田の地に要塞建設が始まった。
正式名称は「亀田役所土塁」といい、郭(くるわ)の形が5つの突き出した角をもつ星型であり、「五稜郭」と呼ばれ、幕府の依頼で設計と監督を適熟(てきじゅく)の洋学者武田斐三郎、普請奉行は堀田利熈が担当した。
武田は西洋軍学や築城技術、自然科学全般に通じた知識人であり、戦国時代から進化していない築城技術を画期的なものに形を変えて現した。
元治元年(1864)完成、周囲3,455m・総面積178,602u。
そもそも外敵に備えるのが目的なのに!!!
慶應4年(1868)、戊辰戦争は鳥羽・伏見で火蓋が切られ関東・越後・奥羽へと北上し、ついに蝦夷へ!
榎本武揚(たけあき)率いる旧幕府軍が函館北方の鷲の木に上陸し、新政府軍を追い払い五稜郭を支配下に置く。
各所で熱戦を繰り広げるが(函館戦争)兵力に劣り補給も絶たれ、新政府軍に凱歌が上がる。
明治2年5月、旧幕軍は降伏、五稜郭は開城。

堀・石垣・土塁とうの遺構がある。
函館観光の人気スポット!

photo:舞薙^2さん


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