品川台場 shinagawa-daiba |
東京都港区港南 |
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陵保式縄張
函館五稜郭・函館四稜郭・戸切地陣屋(旧松前藩)・田口陣屋(信州大給藩)・品川台場(東京港区)がある。
※神奈川台場 |
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第三台場/石垣/砲台跡/弾薬庫跡/第六台場(左列)
東京タワー250m展望台より・レインボーブリッヂの後方/石垣とレインボー・ブリッヂ/陣屋跡/かまど(右列) |
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別名 |
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築城年代 |
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嘉永6年(1854) |
縄張・種別 |
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陵保式/海中砲台 |
築城者 |
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幕府(江川太郎左衛門) |
遺構 |
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砲台・陣屋跡・弾薬庫・石垣・土塁 etc |
復原 |
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国指定 |
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史跡 |
攻城年月日 |
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2003/9/15 |
【構 え/歴 史】
嘉永6年(1853)6月3日アメリカ東インド艦隊指令長官ペリーが、4隻の黒船で浦賀(神奈川県横須賀市)へ開国を迫りに来航した。
幕府は鎖国が「祖法(先祖伝来の掟)」であると、アメリカ大統領の国書受け取りを拒絶したいところだ。
ところが、幕府は威しともいえる”砲艦外交”に屈し受理してしまった。
6月12日黒船は江戸湾を離れていったので一応平穏にはなったものの、今後の課題としていかに外国勢力に対処するか議論がなされ、幕府が江戸防衛対策として採用したのは、品川沖から深川沖にかけて11ヶ所の台場を築造するという案であった。
しかも、品川の海岸線より3kmほどの海中。
発案者江川太郎左衛門は、民政家・日本有数の西洋式兵法学者として知られ、工事の設計・監督は太郎左衛門自身が行った。
建築計画のお知らせ |
建築物の名称 |
台場建築工事/(仮称)十字砲火で黒船を退治するぞ城壁 |
建築敷地の地名地番 |
江戸湾(東京都港区台場1丁目10番) |
工事概要 |
用途 |
異国船対策 |
敷地面積 |
第三台場_29,963.40u
他は資料なし |
構造 |
陵保式縄張り |
基礎工法 |
品川御殿山の掘削土で人口島建設
石材(伊豆・真鶴産)で台場を固める |
着工予定/第1期工事 |
嘉永6年8月 |
完成予定 |
嘉永7年12月_第一・二・三台場 |
第2期工事 |
嘉永7年12月 |
完成予定 |
?_全部で11造る予定 |
建築主/住所・氏名 |
江戸城内・徳川幕府 |
設計者/住所・氏名 |
伊豆韮山(にらやま)・代官江川太郎左衛門 |
施工者 |
名もない人足たち |
標識設置年月日 |
平成15年9月26日 |
こんな看板が立ったかは不明だが、実際にはどうなったかというと、
資金不足により計画では11だった台場が、第四台場工事の途中で中断されてしまった。
けっきょく、品川沖から高輪沖にかけて6ヵ所の台場が築かれ、大小260門を設置、≒100万両もの資金を投じたという。
幕末期の幕府財政は貧なのに資金はどこから調達したのか?
勘定奉行が江戸や上方商人に「台場築造御用金」として集めたのが90万両、庶民から10万両。
一度も火を噴くことのなかった砲台...無用の長物だったのか!
現在は埋め立てられ、第三・第六台場が原型をとどめていて、史跡に指定されている。
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photo:あられ |
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