三木城 miki-castle 兵庫県三木市上の丸町

水の手の巨大な「カンカン井戸」/曲輪境(左列)
本丸跡に建つ別所長治辞世の句碑(右)


句碑
「今はただうらみも あらじ諸人のいのちに かわる我身と思えば」



別名 釜山城 築城年代 明応元年(1492)
縄張・種別 ---/平山城 築城者 別所則治
遺構 天守台・井戸・堀
復原 ---
国指定 ---
攻城年月日 2007/9/11


【歴   史】
明応元年(1492)別所則治が播磨の守護大名であった赤松氏の支城、「釜山城」を大改修したのが始まりという。その後は別所氏の居城。
天正6年羽柴秀吉軍に包囲され糧道を遮断された。そこでやむなく城主・別所長治は城兵の命と引き換えに自刃した。元和3年廃城となる。

【三木の干殺し】
支え続けた赤松氏を見限り、自立をめざす別所氏は、畿内の政局を握る細川晴元、後に三好長慶をたより配下となる。永禄11年(1568)織田信長が入京。当時の当主・別所安治は三好氏から信長へ乗りかえた。信長による中国攻略がはじまると先導役を長治がつとめるところであったが、天正6年(1578)信長の残虐さを嫌悪した一党がこぞって突如毛利氏に鞍替え。また作戦をめぐって秀吉とも対立があったという。
そのため、三木城は包囲され、支城や砦は次々と敵の手に落ち、戦局を打開するすべがなくなった。海陸から食糧を運び込もうとするが失敗し、天正7年には完全に食糧搬入路が絶たれてしう。当時、城には7,8千名が立て籠もっており、さらに支城や砦からも敗走してきた兵でふくれあがり、草木も食べつくしまるで地獄絵のようだったと伝えられる。
天正8年正月、長治をはじめ一族の自決により開城した。

photo:ばつまるさん


Back
Home