鷹取山城
takatoriyama-castle
福岡県直方市頓野・菊池市龍門

鷹取山城(左)遠景/堀切跡/石塁跡(左列) 出丸跡/二の丸から本丸を見る/福知山より俯瞰(右列)


別名 鷹取城・高取城 築城年代 永承元年(1046)
縄張・種別 ---/山城 築城者 永井宗久
遺構 石垣・空堀・土塁
復原 ---
国指定 ---
攻城年月日 2005/9/26


【歴   史】
-説明/列車・豪遊記のばつまるさん-
えっと、鷹取城は1046年長谷川吉武の家臣永井宗久により福智山の支峰"鷹取山"(標高633m)に築城。後に筑紫氏、菊池氏、毛利氏と城主は変わる。
時代はずっと下がって1542年、大友の支配から大内へ寝返った毛利鎮実は大友宗麟指揮する1万3千の大軍に攻められ鷹取城に籠城。堅牢でなかなか落ちぬ鷹取城に大友の将・十時摂津は500の兵で福智山の中腹に登り、高取城へ弓矢を射かけた。それに動揺した城兵は防戦一方となり、二の丸が落ち陣屋が出火し城は落城、毛利鎮実は降伏。ただ画像を見ても分かる様に鷹取山は福智山から結構距離があるので弓矢の攻撃は効力より心理的効果の方が高かったと思います。
この戦で功があった十時氏は鷹取の城下に領を得たのか、現在上野(あがの)地区に数軒"十時"の姓が見受けられます。この上野は江戸時代、茶器の名産地"遠州七窯"の一つに上げられる上野焼きの里で、今も窯の一つに十時の名前が・・・。
この戦以後毛利鎮実は大友方として働きますが、宗像氏の端城"猫城"を落とそうと立花道雪と計り、武将一人と雑兵僅か150余で守る猫城に攻め込みますが、急を知った宗像氏の援軍2千の急襲に合い鎮実、多数の死傷者を出す負け戦としてしまいます。どうも鎮実は戦下手なのか、以後も負け戦続きです。
毛利鎮実の後は大友と敵対していた筑紫広門。この頃広門の娘と高橋紹運の次男・直次は婚姻し、大友氏と筑紫氏は和解していたのでその関係かも知れません。筑紫広門が城主の頃、島津の攻撃に合い落城。島津撤兵後は筑紫氏復帰、筑紫氏転封後は空き城か小早川かな?
小早川の後は黒田家の家老「酒は飲め飲め」の母里太兵衛友信が小大名並みの1万8千石で入城。母里城主時代の事、長政に従って江戸に向かう太兵衛、ある大名の家来が富士山を見ながら
「さすが名山、日本国中でこれより高く美しい山はまたとあるまい」
と言ったのを聞いた太兵衛
「筑前国に福智山と申す名山がござる、富士山よりも高く姿も美しい」
と大いに自慢したと言う。福智山は太兵衛が城主を勤める鷹取山の主峰。画像で言うと鷹取城遠景の真ん中の山、その峰の高さ約900m。富士の峰に肩を並べるどころか足元にも及ばない・・・。
母里は後藤又兵衛基次逐電後空き城になった益富城に移り、代わって手塚展連が入城。
1615年、一国一城冷により高取城は570年の歴史を閉じる。

【攻城記】
現在本丸跡はススキや茅に覆われ石塁等は草に隠れて見え辛くなってます
なんとか石垣の写真を撮ろうと腰の高さまであるススキを掻き分け
石積みの上に足をかけると足元に太短い一匹のヘビ
えっと、これは縞が無いからシマヘビじゃないし
アオダイショウでこの胴ならもっと長いし、色も違う
水気が無い場所だからヤマカガシでもない
ましてや愛嬌のあるジムグリちゃんでもない
って・・・・やっぱりこれはどう見てもマ・ム・シ♪

つー事で急遽撤退!
今回鷹取城の本丸や二の丸跡の
画像が少ないのはマムシのせいです<汗
ちなみに本丸跡からは芦屋基地の滑走路やタワー
蔦ヶ嶽城がある宗像の四ツ塚連山が見えました
位置が分からないので猫城跡は分かりませんでしたが
鎮実が落とそうとした事からもきっと目障りな位置にあったのでしょうね

それと福岡のススキの季節はもーちっと後
福智山や鷹取山は平地より3〜5度気温が低いからね
攻城した日の福智山山頂の気温は12時で20.5度、涼しかったよ〜
ちなみに福智山山頂の展望は360度
芦屋や築城や新北九州空港の空港島
新幹線や高速道路に若戸大橋や関門橋
そして「青春の門」で有名になった田川のシンボル香春岳
香春岳山頂には香春岳城と言う城跡があったんだけど
セメントの原料として石灰岩の山は削り取られ今は消失・・・

photo:ばつまるさん


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