別名 |
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築城年代 |
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文禄元年(1592) |
縄張・種別 |
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---/平山城 |
築城者 |
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豊臣秀吉 |
遺構 |
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曲輪・石垣・土塁 |
復原 |
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国指定 |
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史跡 |
攻城年月日 |
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2005/5/11 |
【構 え】
東松浦半島の北端、上場台地と呼ばれる丘陵に築かれ、全域≒14万4700uに及ぶ壮大なもので、当時としては大坂城に次ぐ規模であった。
5層の天守をもつ本丸を中心に、西に二の丸、東に三の丸、その他に幾つもの郭を配し、5箇所の城門が設けられていた。また、城の周辺には諸大名の陣屋が設置されていたが、その数は100余りといわれる。
【歴 史】
文禄元年(1592)と慶長2年(1597)の2度にわたって、朝鮮半島へ大軍を派遣した「文禄の役」と「慶長の役」。その際、朝鮮渡海軍の出撃基地として築かれ、この城とその周辺に在陣組と渡海組合わせて≒30万もの軍勢が集結した。
慶長3年に秀吉が亡くなり、朝鮮からも軍が引き上げると廃城となる。寺沢広高が名護屋城の諸櫓・諸門を唐津城へ、伊達政宗が大手門を仙台城へ、松浦鎮信が城瓦を平戸城へそれぞれ移した。寛永14−15年(1637−’38)の島原の乱のあと、北九州を巡視に訪れた松平信綱の命で城は破却された。
【攻城記】
えー、本日懲りずにまた壱岐へ行ってきました。
今回お船の時間に間があったので早朝の名護屋攻め、いや前線の陣屋にしては広いっす。つーか、敷地だけで言えば30〜50万石クラスの本城に匹敵します。
各家の陣屋も仮の宿営地とは思えぬ立派な造りだったと言うし、名護屋=出城と考えない方がいいかもね。
城外の前田家陣屋跡にはなにやらブルーシートが被ってましたので、なにかしらの調査が行われている様です。<立ち入り禁止
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