別名 |
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亀岡城 |
築城年代 |
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元和5年(1619) |
縄張・種別 |
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---/平山城(海城) |
築城者 |
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松浦鎮信(しげのぶ) |
遺構 |
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石垣・北虎口門・狸櫓・土塀 |
復原 |
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模擬=天守・見奏櫓・懐柔櫓・地蔵坂櫓 |
国指定 |
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攻城年月日 |
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2001/1/24 |
【歴 史】
松浦氏は摂津の源頼光の四天王のうちのひとり、渡辺綱の孫にあたる久(ひさし)を祖とする家である。
松浦一族は勇猛果敢な水軍でその名は国外にも知られていた。久には7人の子がいてそれぞれ分家し”松浦四八党”を作った。
下松浦26代目の鎮信(しげのぶ)は秀吉の九州征伐で功を挙げ、さらに朝鮮出兵に出陣し、慶長年間初期に帰国してから築城を始めた。完成間近に息子の久信が急死したので、悲しみのあまり鎮信は城に火をかけ焼いてしまった。
元禄15年(1702)29代の天祥鎮信が幕府に築城を申請し許可を得る。兵法家として名高い山鹿素行(やまがそこう)が縄張りをし、天祥鎮信の子30代松浦雄香棟(ただす)が工事責任者となる。城は山上に本丸、二の丸を備え、海岸には三の丸を設け、眼下に渦巻く潮流を濠とした。
松浦6万石の居城も幕末には取り壊された。
余談だが、上松浦一族には岸岳城の波多氏を頭領とし、その子孫には江戸前期の侠客幡随院長兵衛がある。
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