筑後福島城
chikugo-fukushima-castle
福岡県八女市本町


堀−内堀や中堀は埋められて消滅。その一部分が面影を残している。外堀は、福島地域を流れていた灌漑・生活用水路を利用して築造されたと思われる。

内堀跡/櫓台跡(左列) 城址の碑(右)


攻城年月日
2008/2/20


【歴   史】※案内板による
天正15年(1587)豊臣秀吉による九州平定後の国割により筑後国に5大名が配置され、上妻郡(八女)は筑紫広門が領主となり山下城(立花町)に居城したが、福島に規模の小さい支城を築いた(本丸跡、東西112M×南北76M)。これが福島城の始まりである。慶長5年(1600)筑紫広門は関が原合戦で西軍に属したため除封され領地を失った。
慶長6年田中吉政は、関ヶ原合戦と石田三成生け捕りの功を賞され、筑後一国の国主になり、柳川城を居城とした。吉政は入国そうそう、領内各地に散在していた必要な古城を残して城郭の強化を行い一族・重臣を配置し防備体制を整えた。中でも福島城は三男の田中康政の居城として筑紫広門が築いていた城を拡張構築したものだ。新しく本丸・二の丸を築き、城内は内堀・中堀・外堀の三重の堀を回らし、堀を深くして(堀幅10-15M)築地を高く、矢倉(櫓)を建てて防備を堅固にした。福島城の大改修構築のとき、古墳や石人石馬類が使われている。※−岩戸山古墳・童男山古墳とう多数あり−
元和6年(1620)領主田中家は跡目を継ぐ嫡子がなく断絶。築後国は有馬・立花両氏で分割し、矢部川を境界として領域を定めた。翌、元和7年新領主有馬豊氏が入国し久留米城を居城にすると、「一国一城令」により福島城は破却廃城となる。

photo:ばつまるさん


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