homereports on history 雑学・事件の検証etc...レポート
Egotahara War/江古田原の合戦/太田道灌が名族豊島氏を破る

妙正寺川で古戦場碑のある側と林との側に分かれる



住所:東京都中野区松が丘2-29・35 江古田公園

哲学堂公園から野方6丁目に至る新青梅街道沿いの一帯は、文明9年(1477)太田道灌と豊島泰経らが激戦を繰り広げた場所。この合戦は享徳の乱(1454-82)という長期にわたる内乱の中の戦である。

文明8年(1476)山内上杉氏の重臣・長尾景春が主家に背き叛乱を起こした。
このころ、関東の武将たちは関東管領両上杉(扇谷・山内)の支配を嫌い自立を求める傾向にあったが、扇谷上杉の家宰(家老)・太田道灌によりなんとか押えられていたのだ。景春は道灌が駿河国(静岡県)今川家の内紛を調停するために留守をしたすきに、五十子(現:埼玉県本庄市)で両上杉軍を撃破。これを「長尾景春の乱」という。山内上杉氏の臣であった豊島一族(平塚城・石神井城豊島城)は、道灌の勢力がのび領地を脅かされはじめていたので景春に味方した。
駿河から戻った道灌はただちに討伐に乗り出し、まず平塚城を攻めるため江戸城を発した。石神井城の泰経は平塚城の弟・泰明から知らせをうけたが、平塚城の救援はせずに、道灌が出陣して空城となっている江戸城を乗っ取ろうと向かった。道灌は泰経の作戦を見抜くと平塚城の城下に火をかけ、急いで軍を返すと神田川と妙正寺川との合流点、江古田原に陣をしき豊島軍を迎え討ち、猛攻撃をかけ援軍の泰明・板橋氏・赤塚氏を討ち死にさせた。
泰経は石神井城へ逃げ帰り道灌に降伏を申し出たが条件(要害をすべて破壊する)で折り合いがつかず、完全包囲され力攻めにされて落城。泰経は敗走し豊島一族は滅びてしまった。

2005/8/14
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