別名 |
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築城年代 |
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鎌倉時代後期 |
縄張・種別 |
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築城者 |
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豊島氏 |
遺構 |
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土塁・空堀 |
復原 |
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国指定 |
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攻城年月日 |
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2003/9/5 |
※日暮れ間近の上、うっそうとした樹木のため暗すぎて撮影失敗。
【構 え】
石神井川と三宝池にはさまれた台地に築かれており、全体で9hrの規模であったと推測される。
当時の城は土塁と堰(せき)で土地を四角形に区画した郭をいくつも築き、防御施設としていた。
城の中心となるところには土塁・濠が残っている。また、内部は平坦になっていて、陶磁器片・素焼土器・鉄釘とうが出土していて建物があったことがうかがえる。
【歴 史】
※江古田原の合戦参照
豊島氏は、葛西氏・江戸氏とともに秩父流平氏で、平安時代末期から室町時代中期にかけて、現在の東京都北部(台東区・文京区・北区・荒川区・板橋区・足立区・練馬区)やその周辺地域に勢力を持っていた。
文明9年(1477)4月最後の城主豊島泰経は、武蔵守護の上杉顕定に背き長尾景春に味方した。
そのため、顕定を支援していた江戸城主上杉定正の重臣である太田道灌に攻められ落城、廃城。
「太田道灌状」によると、泰経は石神井城落城後、平塚城(北区・西ヶ原)へ敗走、翌年1月再び道灌の攻撃を受け小机城(横浜市)へ逃げている。
その後の足取りは不明。
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