盛岡城 morioka-castle 岩手県盛岡市内丸岩手公園



石垣(左)
空堀にかかる朱塗りの橋/本丸跡(右列)



朱塗りの橋
当時は「御廊下橋」と呼ばれていた。本丸と二の丸を結ぶ。
石垣
石垣の素材石は遠方から運ぶことなく、全て近隣産の花崗岩を用いているのが特徴。代表的な石積みの技法<石積み種類/愉快痛快歴史櫓>を全て使用。また「三角錐の角石.」というこの城でしかみられない貴重な石垣がある。


別名 不来方(kozukata)城 築城年代 慶長3年(1598)
縄張・種別

連郭式/平山城

築城者 南部利直
遺構 曲輪跡・石垣・濠
復原 ---
国指定 史跡
攻城年月日 2008/2/上旬


【構   え】
盛岡城は、要害の地ある北上川と中津川の合流地点に位置した丘陵を利用して築かれた城で、盛岡南部氏20万石の居城であった。初代盛岡藩主南部信直(南部家26代当主)が慶長2年(1597)に起工、豊臣秀吉から築城普請の許可を得たとされる翌'98年から3期にわたり工事が進められた。しかし、たびたび両河川が氾濫し、出来上がった石垣を押し流すので苦労が多かったらしい。
城郭は東西1100M、南北1300M。築城工事は2代利直の指揮のもと行われた。また、石垣はおもに当所から掘り起こされた花崗岩の巨石が割り当てられたという。完成は寛永10年(1633)。

【歴   史】
天正10年(1582)南部信直が南部宗家の家督を相続。南部氏の領内には一族による内紛が頻繁に起こった。重臣の大浦城主である津軽(大浦)為信が叛旗を翻し、津軽の地を分離独立させた。また一族の九戸政実は南部氏の家督を奪おうと、信直に対し徹底抗戦でのぞんだ。天正17年(1589)豊臣秀吉の小田原攻めに参陣することを決意。遠方への遠征は危険をはらんでいたが、翌天正18年1000の兵を率いて秀吉のもとへかけつけ本領を安堵。またもや九戸政実が反乱を起こしたが、秀吉の「奥州仕置」により滅んでしまう。
その後も、利直の時代には藩の金山奉行である北十左衛門の裏切り。利直の子の重直が病没すると跡目をめぐりまた一族の争い。明治維新まで南武氏の御家騒動は続いた。16代、260余年在城。

photo:SPOOKさん


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