別名 |
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築城年代 |
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建久3年(1192) |
縄張・種別 |
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---/平城 |
築城者 |
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八田知家 |
遺構 |
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曲輪跡・土塁 etc... |
復原 |
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国指定 |
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史跡 |
攻城年月日 |
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2005/10/吉日 |
【構 え/歴 史】
12世紀末に八田知家によって築かれた。知家は常陸国の守護となり、建久4年(1193)には多気義幹を亡ぼし、常陸国南部に勢力を広めた。4代時知に至り小田氏を名乗るようになる。鎌倉幕府が亡びると、7代の治久は新政府に参加し、南朝に味方した。治久は延元3年(1338)に北畠親房を小田城に迎え、関東における南朝の中心として活躍した。親房は城中で「神皇正統記」「職原抄」を執筆した。しかし高師冬に包囲され、翌年治久は師冬に降り、親房は関城に移った。
戦国時代になると、小田氏は佐竹氏、結城氏に攻められ、小田城の激しい争奪戦が続いた。小田氏治は永禄12年(1569)の手這坂合戦に敗れて土浦(土浦城)へ逃げた。佐竹氏は梶原政景を小田城代として守らせた。政景によって小田城は大改修された。慶長7年(1602)に佐竹氏は秋田へ国替えされ廃城となる。
小田城は、本丸を中心に三重の堀と土塁に囲まれた平城で、約21ヘクタールに及ぶ。本丸部分の約2ヘクタール程を八田氏の居館として出発し、次第に拡大強化された。南北朝に入ってから、居館から防御のための城郭へと転化した。戦国期の度重なる戦乱の中で戦闘用に強化された。更に梶原政景によって最終的に改修され、現在知りえる姿になって完成する。
この城は平城としての長所を十分発揮して巧妙に設計されている。本丸と各郭は深い堀と高い土塁で囲まれ、重要な出入口には馬出を設けて、直接進入できないようにしてある。郭は堀によって隔てられ、橋で結ばれている。郭は外部になるにつれて広くなるが、その中に堀や土塁を設けて、郭内の自由な移動を妨げている。郭群の外を北から東に囲む最外部は城下町をなし、その外側も堀と土塁で囲まれている。
【攻城記】
小田城祉は現在発掘調査中(18年1月末まで)で城址を示す石碑のところへは立ち入ることができませんでした。堀の跡は現在水田になっています。
発掘調査の成果について現地説明会が、平成17年12月4日午前10時半からあるそうです。
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