土浦城 tsuchiura-castle 茨城県土浦市中央 1丁目

太鼓門/堀/東櫓(左列) 旧前川門/本丸と掘を隔てる土塁/西櫓(右列)

旧前川口門
親柱の背面に控柱を立て屋根をかけた門で、江戸時代末期の建築。
武家屋敷であった多計(たけい)郭と町屋の間を仕切っていた。
明治18年(1885)土浦戸長役場の門として、大正9年(1920)には田宿町(現大手町)の等覚寺山門として移されたが、城内の二の丸入口「ニ之門」のあった場所に移築された。
東・西櫓
17世紀初頭元和6,7年ころ、本丸土塁上に建立された。
明治以後、本丸館をはじめ移築や取壊し災害とうで多くの建物を失い、太鼓門・霞門・西櫓が残るだけとなったが、とくに西櫓の老朽化が激しく昭和25年に復元を前提として解体された。
はるか時を経て、土塁上の礎石に復元。


別名 亀(き)城 築城年代 永享年間(1429-41)
縄張・種別 ---/平城(水城) 築城者 今泉三郎
遺構 太鼓門・高麗門・土塁・堀
復原 復元=東櫓・西櫓
国指定 ---
攻城年月日 2003/9/7


【構   え】
幾重にも堀をめぐらした水城、霞ケ浦のある東方は2重、南は入江、北・西は3重に堀をめぐらせ、堀の幅は内堀8間半(28m)・外堀7間(23m)もあったという堅固な構えである。
本丸を中心に、三の丸・外丸の他、武家屋敷や町屋を含み、北門・、南門・西門を結ぶ堀で総構えを構成していた。
江戸時代の建物としては、本丸表門の太鼓門(櫓門)・裏門にあたる霞門・二の丸と外丸の間に移築された旧前川門(高麗門)があり、東櫓・西櫓が復元されている。
以前から建物は少なく、本丸に天守も三階櫓も設けられなかった。

【歴   史】
伝説によると”平安時代平将門の砦に濫觴(らんしょう)する”と伝えられる。
その後、筑波郡小田氏の将今泉三郎が改修、洪水になると城だけが孤立して水面に浮かび、亀の背に見えることから「亀城」と呼ばれた。
天正18年(1590)豊臣秀吉は結城秀康(徳川家康の二男)に与え、秀康が越前に転封されると松平信一が入城、2代16年間に亘り城内外の整備にあたり本丸東・西櫓を築くが上州高崎へ移る。
次の城主朽木氏も修理に努め本丸正門太鼓櫓を建築。
このように歴代城主が少しづつ手を手を加え土浦城の威容をかたち造った。

photo:あられ


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