関城 seki-castle 茨城県筑西市関舘

坑道跡
南北朝時代、北朝方の高師冬が、関城の物見櫓を攻め落とすために砿夫を募って地下道を掘った跡。師冬勢が城の東北部から城に向かって坑道を掘りはじめた。これに応じ城兵も外に向かって掘り進んだ。しかし師冬勢の坑道は地盤が軟弱だったため落盤し、双方とも坑道戦は中止したという。
この坑道跡は大正9年9月、関館の青年たちが関館八幡宮西部里道の側面に偶然発見して世に知られるようになったもので、日本三坑道のひとつとして戦史上貴重な価値を有する。
坑道の形式は、無粋、アーチ型に高さ約2M、幅1Mに短柄鍬で砿夫が掘ったもの。

筑西市公式HPを参照。

城址の碑/土塁/坑道跡


別名 --- 築城年代 鎌倉時代初期
縄張・種別 ---/平城 築城者 関朝泰
遺構 曲輪跡・空堀・土塁・坑道跡
復原 ---
国指定 史跡
攻城年月日 2005/10/吉日


【構   え/歴   史】
南北朝対立争乱時代小田城などとともに常陸国内の宮方、南朝方の拠点として知られる史跡。関館一帯8.5ヘクタールの城域には当時の土塁の一部が残り、関城と運命を共にして戦死した城主・関宗祐、宗政父子の墓や、北朝方の武将で関城攻撃で戦死した結城直朝の墓がある。
ここは東西南の三方が大宝沼のかなたに友軍の城、下妻城を望む要害の処であり、東の空に筑波の紫峰を望み、かつて南北両軍が血を流した古戦場とはどうしても思われないような景勝の地でもある。この城には興国2年(1341)小田城から移った北畠親房が、同4年城の陥落前まで留まって、小田城で書いた日本史の本「神皇正統記」に筆を加えて完成したことでも有名。

【攻城記】
関城祉へは、遠回りでも北側からの道路を使用したほうがいいです。反対側からアプローチした私は、途中で何台もの軽トラに道を譲るためにバックしなくてはなりませんでした。道は城祉前でようやく広くなります。
かなりハッキリした土塁(土塁の上に登るための階段も設えてありました)と、坑道が残る珍しい城跡です。


photo:SPOOKさん


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