別名 |
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築城年代 |
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鎌倉時代初期 |
縄張・種別 |
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築城者 |
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関朝泰 |
遺構 |
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曲輪跡・空堀・土塁・坑道跡 |
復原 |
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国指定 |
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史跡 |
攻城年月日 |
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2005/10/吉日 |
【構 え/歴 史】
南北朝対立争乱時代小田城などとともに常陸国内の宮方、南朝方の拠点として知られる史跡。関館一帯8.5ヘクタールの城域には当時の土塁の一部が残り、関城と運命を共にして戦死した城主・関宗祐、宗政父子の墓や、北朝方の武将で関城攻撃で戦死した結城直朝の墓がある。
ここは東西南の三方が大宝沼のかなたに友軍の城、下妻城を望む要害の処であり、東の空に筑波の紫峰を望み、かつて南北両軍が血を流した古戦場とはどうしても思われないような景勝の地でもある。この城には興国2年(1341)小田城から移った北畠親房が、同4年城の陥落前まで留まって、小田城で書いた日本史の本「神皇正統記」に筆を加えて完成したことでも有名。
【攻城記】
関城祉へは、遠回りでも北側からの道路を使用したほうがいいです。反対側からアプローチした私は、途中で何台もの軽トラに道を譲るためにバックしなくてはなりませんでした。道は城祉前でようやく広くなります。
かなりハッキリした土塁(土塁の上に登るための階段も設えてありました)と、坑道が残る珍しい城跡です。
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