別名 |
|
--- |
築城年代 |
|
文明元年(1469) |
縄張・種別 |
|
日本式+朝鮮式/山城 |
築城者 |
|
岩松家純 |
遺構 |
|
曲輪・土塁・石垣 |
復原 |
|
石垣 etc |
国指定 |
|
史跡 |
攻城年月日 |
|
2003/10/13 |
【構 え】
特徴は大規模かつ複雑な虎口形態を持ち、曲輪斜面の石垣・石敷通路・土塁石垣とう随所に石を多く用いていて、中世末期における関東の山城としては珍しい「石垣の城」だ。
金山丘陵全体に築かれた山城、重要部分は本城・西城・坂中城・八王子山矢倉台の4城郭である。
【歴 史】
平安末期、新田氏により築かれ、新田義貞一族の滅亡で廃城。
≒100年後の文明元年(1469)に岩松(新田)家純が再築城。(現在の遺構の基礎となっている)
享禄元年(1528)新田昌純は、重臣横瀬泰繁に殺されてしまう。
下克上によって実質的城主となった由良氏(横瀬氏改め)の時代に、両毛地方を征服し全盛となる。
上杉氏・武田氏・小田原北条氏・佐竹氏とうの戦国の雄に取り囲まれよく耐え抜いてきたが、天正12年(1584)小田原北条氏に攻撃されろう城半年の後ついに和睦。
捕らわれの身となった城主由良国繁と、その弟長尾顕長(館林城主)の帰還を条件に開城し、由良氏は桐生城へ引退。
小田原北条氏の家臣が城番として置かれた。
天正18年(1590)小田原北条氏滅亡と共に廃城。
江戸時代には金山「御林」として徳川幕府の直轄地となった。
|
|