深大寺城 jindaiji-castle 東京都調布市深大寺元町

神代植物公園・右の林が城址/二郭の2重土塁/二郭と一郭間の土橋と虎口・左に櫓台がある/深大寺山門(左列)
二郭と一郭の間の土塁と空掘/二郭の建物柱跡/土橋と反対側にある虎口跡/深大寺本堂(右列)

第一郭跡
江戸時代の城にすると「本丸」にあたる場所で、周りの土塁と空掘は敵の侵入を防ぐのが目的。この城は半島状台地の先端に位置し、南側が一望できる造りになっている。
建物跡
石柱の集まりは、発見された堀立柱建物のうち2棟の柱穴の位置を示す。建物は武士の屋舎であろうと考えられている。一般的に戦国時代の城の建物は丸柱・板葺屋根で床は中心的な屋形のみにあったといわれる。
土橋と空掘
空掘を渡り第一郭と第二郭を結ぶ通路に使われていた土手を復元。当時の空掘はもっと深く現在よりも幅が狭かった。
深大寺
天平5年(733)、満功(まんぐう)上人によって、法相宗の寺として創建されと伝えられる。貞観年間(859〜877)、高僧恵亮が入山し天台宗に改めた。都内では、浅草寺に次ぐ古い縁起をもつ寺である。
境内には湧き水があり、江戸時代にその水にそばをさらしたところ、風味を増したことから有名になったという「深大寺そば」の店が参道に軒をつらねる。
神代植物公園
昭和36年、武蔵野の自然林をきり開いて造成された都立植物園で、≒3000種、10万余本の草木が植栽されている。昭和60年に深大寺からの湧き水を利用して水生植物園が新設された。
※城址へはこの水生植物園の入口から入る。


別名 --- 築城年代 ---
縄張・種別 ---/平山城 築城者 狛江氏
遺構 建物跡・土塁・曲輪・堀
復原 ---
国指定 ---
攻城年月日 2003/10/13


【歴   史】
年代は不明だが武蔵七党にあげられる狛江(こまえ)氏の築城と伝えられる。
武蔵七党とは、10世紀以降の武蔵国(関東)武士集団で、特に「坂東八平氏」「武蔵七党」の勢力が強く、武蔵七党は源頼朝による鎌倉幕府創設に大きな役割を担った。
狛江氏は”西党”から分かれた一族だ。
大永4年(1524)扇谷上杉朝興が小田原・北条氏に敗れ、江戸城を奪われてしまった。
さらなる北条氏の進出を防ぐ目的で、天文6年(1537)川越城主・扇谷上杉朝定が家臣の灘波田弾正に命じ、城を再築させたという。
天文6年(1537)北条氏は深大寺城には目もくれず、川越城を攻撃し城を奪った。
その後、扇谷上杉方も奪還するが、天文15年(1546)北条方は川越城に奇襲攻撃をかけ、これを支配下に置いた。
まもなく廃城となる。

城の規模は、南北≒200m・東西≒70m。

photo:あられ


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