別名 |
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築城年代 |
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建治3年(1277) |
縄張・種別 |
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---/山城 |
築城者 |
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北条義政 |
遺構 |
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石垣・空堀・土塁 |
復原 |
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国指定 |
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攻城年月日 |
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2005/10/9 |
【歴 史】
鎌倉中期・幕府の連署(れんじょ)といいNo2の重臣であった北条義政が突然この地に移り、館(やかた)を構えたことから始まる。義政の子・国時、その子・俊時と3代にわたり約60年、塩田北条氏と称し、信濃の一大勢力「としてこの地方を統治し、また幕府内でも活躍した。
元弘3年(1333)新田義貞に攻められ幕府の運命が危うくなったとき、この塩田北条氏は「いざ鎌倉」と一族をあげて支援にかけつけたが奮戦むなしく滅亡。このとき、国時・俊時も、鎌倉の東勝寺裏にある「腹切りやぐら」という洞窟で北条高時ら幕府方と共に最後を遂げた。
その後、この地方は葛尾城(坂城町)を本拠とする豪族・村上氏の領有するところとなり、村上氏は重臣の福沢氏を城代として統治させた。再び塩田城は政治の中心地として重要な役割を果たしていたが、天文22年(1553)甲斐の武田信玄に攻められ落城。
信玄は塩田城の戦略上の重要性に注目し、とくに飯富(おぶ)氏等の重臣をこの城に置き、自らも時々ここに滞在して東信濃の拠点とした。
信玄の子・勝頼もそれにならったので、この城は天正10年(1582)武田氏が没落し、真田氏が上田城を築くまで約30年間この地方の軍政両面の重要拠点であった。
東西200m・南北700mに及ぶ築城のあとが明らかになり、県内最大級の中世の城館跡であることが発掘調査により解明された。
【攻城記】
人気の「信州の鎌倉」別所温泉にほど近い塩田平の南端に独鈷山があり、その支脈の弘法山のすそに位置します。
今回は諸事情で「発掘地点」辺りまでしか行くことができませんでした。石垣・土塁も見かけましたが、どんよりとした曇り空で真っ黒になってしまい撮影困難。(ーー;)
また次回挑戦してきますのでお楽しみに。
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