別名 |
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築城年代 |
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鎌倉時代初期 |
縄張・種別 |
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築城者 |
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武田信義 |
遺構 |
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堀 etc... |
復原 |
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国指定 |
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史跡 |
攻城年月日 |
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2004/12/2 |
【構 え】
釜無川右岸の段丘上の独立峰に築かれ、標高は560m。山頂の土塁で囲まれた≒25m四方の主郭を中心に、南北に郭を配し、山頂には横堀とそこから放射状に竪堀を落とし、西側背後の尾根続きには大きな堀切を2ヵ所設けている。
城の西側にある標高882mの八頭山から白山城を取り囲むように南北に尾根がのび、その尾根がつきるところにそれぞれ烽火台が築かれており、北側を”北烽火台”、南側を”ムク台”と呼ぶ。
城郭史では武田氏城郭の典型例として位置づけられる。
【歴 史】
甲斐源氏逸見源太清光の子・信義は、甲斐源氏を率いて木曽義仲や源頼朝に味方し、戦功をあげ甲斐国守護に任ぜられた。
信義の要害として築かれた白山城は、戦国期に武田氏の領国経営にはなくてはならぬ烽火台ネットワークの拠点的城郭として、甲府盆地北部における枢要な位置を占めていた。
信義ののちは武田一門の一条氏、その氏族で武田衆の青木・山寺氏が居城として守りを固め、武田勝頼の代には新府城防衛の拠点として重要な役割を担った。
江戸初期寛文年間に廃城となる。
【攻城記】
難攻不落の城で、武田八幡宮からの入り口は閉鎖され、案内板の無い養鶏場の下から入ろうとすると、そこにも閉まっています。
高圧電流が流されており軍の施設のようです。よくみると、小さな看板に「注意して出入りしろ、しかし、必ず閉めろ」と書いてあります。恐る恐る入りましたが、言い知れぬ恐怖が襲います。
100段以上の石段を上がると、そこはもう心霊スポットのような雰囲気、早々に退散しました。(笑)
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