原城 hara-castle 長崎県南高来郡南有馬町浦田名

二の丸跡/空堀(左列) 本丸の石垣/大手門跡(右列)


別名 --- 築城年代 明応5年(1496)
縄張・種別 ---/崖城 築城者 有馬貴純
遺構 空堀・石垣
復原 ---
国指定 史跡
攻城年月日 2004/4/12


【構   え】
島原半島の東南部、有明海に突き出た周囲3km・標高30mの岬に築かれた。
岬の南端崖城に本丸、その北側に二の丸と三の丸が連結しており、本丸の南西には天草丸ともいわれる大江丸、北西には鳩山出丸、二の丸にも出丸を配置。
城郭区域は東西≒250m・南北≒700mにおよび、戦国時代には北九州でも有数の規模を誇る堅牢な城であった。

【歴   史】
明応5年(1496)東肥前まで勢力を伸ばした有馬貴純により築城された。
晴純の代に全盛を極め、徐々に衰退し、義直の時代には、龍道寺氏により攻撃を受けたが、島津氏の援助で「沖田畷」の戦いで勝利をおさめた。
慶長17年(1612)年、晴信が「岡本大八事件」で配流、切腹となる。晴信の子・直純が跡を継いだが2年後日向国(宮崎県)へ転封された。
元名2年(1616)大和五条より松倉重政が入城、島原城を築くことになったので原城は廃城。石垣の大部分が移されたのだという。
寛永14年(1637)「島原の乱」が起こり、天草(益田)四郎時貞の元に団結した一揆勢が原城を修築してろう城。3万7千の一揆勢が12万の幕府軍を迎え撃ったが、3ヶ月の抵抗で城は落ちた。

【攻城記】
原城攻撃の布陣図を見るとその殆どが西国の藩。その中でも印象的なのは日向・有馬氏 元々島原の領主でありながら、日向高鍋に転封 そして久々に墳墓の地に入るもそれは島原攻め。しかも原城に籠もった者の中には昔有馬に仕えた者も多く、有馬氏に繋がりが有る者もいて、本当有馬勢は攻め辛かったと思う。

photo:ばつまるさん


Back
Home