日野江城 hinoe-castle 長崎県南高来郡北有馬町谷川名

大手門跡/二の丸跡(左列) 武家屋敷跡/二の丸から本丸を見る(右列)


別名 --- 築城年代 建保年間(1213〜19)
縄張・種別 ---/平山城 築城者 有馬経澄
遺構 石垣・空堀
復原 ---
国指定 史跡
攻城年月日 2004/4/12


【構   え】
山頂の本丸を中心に、東南に二の丸・北西に三の丸が置かれ、大手門は二の丸の東南にあり、本丸北側と三の丸南側に空堀が残っている。
城下には有馬氏と家臣たちの居館が設けられ、天正8年(1580)にはイエズス会のセミナリョも建てられていた。発掘調査により「直線階段遺構」といい、ヨーロッパの影響を受けた遺構の存在が確認された。
大手口から二の丸へ≒100mも続き、他には安土城にしかみることができないという珍しいものだ。

【歴   史】
建保年間(1213〜19)肥前国(長崎県)西部に最大勢力を持つ有馬氏の居城で、有馬経澄が築城したと伝えられる。(南北朝時代の遺構とも)
有馬氏については藤原純友の末裔という説もあるが、実際は土地の豪族であったようだ。
晴信は4万石の大名でありながら、海外交易や少年使節団の海外派遣とうの功績が多く、外国の文化を積極的に取り入れるなどの功績を残す。
慶長17年(1612)「岡本大八事件」により甲斐国(山梨県)に配流され自刃した。
元名2年(1616)以降には一時松倉氏の居城となり、厳しいキリスト教追放政策が展開された。

【資   料】
-岡本大八事件-
有馬晴信は本多正純の家臣であった岡本大八に騙されて、ポルトガル船を沈没させた。さらに、長崎奉行の長谷川藤広を暗殺(これは未遂)しようとした。
幕府からポルトガル船を沈没の恩賞をもらえると岡本にいわれていたのに、ことの重大さに幕府は
「そんなこと約束した覚えはないよ」
と知らぬ顔。
「その上、長崎奉行を暗殺しようとは誠にもって言語道断」
と切腹を迫ったのだ。む、惨い...。

【攻城記】
日野江城は結構古い城のせいか武家屋敷跡の石垣は城跡と知らないとまるで段々畑の跡に見える。また、大手門跡から本丸へは直接行けないと説明文にあったが・・・歩いて行けまし。た ただ、本丸跡に着いたら「マムシ注意」の注意書きが・・・ああ、そう言う意味で行 けないのね。

photo:ばつまるさん


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