別名 |
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森岳(もりたけ)城 |
築城年代 |
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元和4年(1618) |
縄張・種別 |
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連-輪郭併用式/平城 |
築城者 |
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松倉豊後守重政 |
遺構 |
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堀・石垣 |
復原 |
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天守・西隅櫓・巽櫓・艮櫓・矢狭間壁 |
国指定 |
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攻城年月日 |
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2001/1/28 |
【歴 史】
元和2年(1616)大和五条から6万石の肥前島原に移封された徳川譜代の松倉重政の城。譜代は江戸の守りのために近くに、外様は遠くへ国替えをするが、この措置は異例中の異例といわれる。
寛永元年までの7年間の歳月と、延べ100万の領民を総動員して築いた。重政は当時屈指の城作り名人であり、縄張りの経験と技術をいかし安土桃山様式の粋を尽くした名城に仕上げた。
重政は3代将軍家光の厳命通り厳しいキリシタン弾圧政策を行った。築城の際にも費用を捻出するため領民に重税を課して窮乏に落とし込んだ。最も厳しく弾圧を加えたのは、信徒の大量処刑を行った寛永2年から8年にかけてである。
寛永14年(1637)には大凶作が起こったにもかかわらず圧政を続けたので、百姓一揆から始まった対立がキリシタン信者も巻き込んで”天草の乱”に発展。幕府から重政の対処の仕方のマズさを責められて切腹を命じられる。
城は内・外郭にわかれた南北に長い長方形で、外郭は周囲4キロにも及び矢狭間のある塀をめぐらした7門33櫓の並郭式平城。内郭は南より本丸、二の丸と並び、5層の天守閣や多くの櫓を備えていた。美しい天守の形は層塔風総塗込式(そうとうふうぬりこめしき)という。
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