| 主な武将 |
| ■上杉謙信軍 |
|
■武田信玄軍 |
主な参戦武将本隊:
直江実綱/柿崎景家/宇佐見定行/
斎藤朝信
主な参戦武将信濃衆:
村上義清/高梨政頼 |
|
主な参戦武将本隊:
武田信繁/武田義信/穴山信君
主な参戦武将妻女山攻撃隊:
高坂昌信/馬場信房/真田幸隆 |
|
|
| 戦の背景 |
川中島の合戦は計5回の出陣があった中で、今回ご紹介する第4次の合戦が一番激しい戦闘になった。
ことの発端は今回武田軍が陣を置いた信濃の海津城の南に下った所にある村上義清の葛尾城が、天文22年(1553)武田軍に攻め落とされ、命からがら上杉謙信を頼って越後へ落ちていった。
上杉謙信は関東管領という職務上の責任として、北信濃を武田から守るために動向を見定めながら度々この地へ進出した。一部では双方の利権争いだとの見方もあるが、わたくし個人としては謙信の義理堅い逸話が多く残されているように、あくまでも関東の守護、職務のプライドで行動していたのだと思う。頼まれたらイヤと云えない性格かも!
信玄は諏訪方面を次々と手に入れ、残る北信濃をゲットできれば、甲斐と信濃の2国の太守となれる。
ちなみに、村上義清よりも3年程前の天文19年(1550)には、深志城(現在の松本城)城主小笠原長時も信玄に追い立てられ、上杉謙信の元へ亡命している。 |
|
| 布陣 |
| ※ここからは上の合戦図とNoと日付を参考にしてください。 |
| 1. |
善光寺に5,000の兵を補給のために残留させる。
|
| 2. |
本隊は妻女山に布陣。さて、ここで、何故一気に武田の城である海津城を攻めなかったのか?という疑問が生まれるが、もしも城攻めが長引けば武田本隊と城側に挟み撃ちにあるキケンがある。 |
| 3. |
武田軍は上杉軍とは千曲川を挟んだ対岸に布陣。双方にらみ合いが続く。
茶臼山に陣をはったという説もあるが、またまたわたくしの意見としては、16,000もの軍勢が、いちどに山へ登るのは大変かなと思うし、上杉軍の補給を絶つためにも、自軍の補給路を確保するためにも平地の方がだんぜん有利だと思う。
|
| 4. |
いつまでも上杉軍が仕掛けてこないので、武田軍は千曲川を渡り海津城に入城する。武田軍の行軍中も上杉軍は静観の構えを崩さず、お互い離れたところからの探り合い。 |
|
| 合戦 |
| ※こちらも上の合戦図とNoと日付を参考にしてください。 |
| 5.6.7. |
信玄は兵力で勝っていることを利用して、川中島の決戦場(八幡原)へ直行する旗本部隊と、妻女山から上杉軍を決戦場へおびき出すための別動隊との2隊に分けた。
世にいう『啄木鳥(きつつき)戦法』とは、この別働隊の行動。上杉軍を刺激するための陽動作戦のこと。うまくいけば挟み撃ちにして謙信の鳩首を挙げることができる。
キツツキの習性は木をつついて中の虫を驚かせ、穴から出てきたところを食べちゃう、というところから名付けられた戦法。軍師として有名な「山本勘助」が考えたと伝えられるが、真相は定かではない。
ところが、啄木鳥隊(~_~;)が妻女山に到着してみると、上杉軍の影も形もない。
海津城からあがった狼煙で武田軍の動きを察知した上杉軍は、闇夜と霧にまぎれて”鞭声粛々(べんせいしゅくしゅく)”と千曲川を渡り、八幡原へと軍を移動してしまった後だった。
”鞭声粛々”とは物音を立てないようにこっそりとという意味。馬の口もぐるぐる巻きに縛ったらしい... |
| 8. |
慌てた啄木鳥隊は即座に後を追った。
×.そして10日
八幡原には霧が立ちこめていた。ふっと霧が晴れた瞬間、信玄の目の前に越後勢が...すぐさま本陣を扇の要とし、鶴翼の陣形をとる。啄木鳥隊あらため別働隊が到着するまでなんとか持ちこたえなくてはと必死だ!
攻める上杉軍は『車懸(くるまがか)りの陣』で次々突進してくる。これは車輪がぐるぐる回るように進みながら兵が内側へ内側へと入っていく陣形だ。
疲れた武田軍に回りながら新手の上杉兵が襲いかかる。かなりの乱戦に信玄の次弟である武田信繁、勇将諸角豊後など名のある侍大将が戦死。
11:00に別働隊が到着すると数で勝る武田軍が挽回する。ここで謙信が単騎、信玄のいる本陣へ乗り込んで一騎打ちをしたという話がある。(^○^) |
| 9. |
12:00明らかに不利な形勢となった上杉軍、善光寺を目指し撤退。 |
|
|
戦死者:武田軍4,600。上杉軍3,400といわれる。合戦史上もっとも戦死者の多く出た戦いになってしまった。
勝敗:双方痛み分け。永禄7年(1564)7月の第5次の合戦は上杉軍が善光寺まで兵を進めたが、武田軍が衝突を避けたのでそのまま越後へ退いた。 |