松前城 matsumae-castle |
北海道松前郡松前町字松城
|
 |
|
|
 |
 |
 |
外堀/本丸御門と天守/本丸跡(左列)
本丸御門/搦手二の門(右列) |
|
最後に築城された日本式城郭
本丸御門は松前城唯一の遺構。重要文化財指定。 |
|
 |
 |
|
|
別名 |
|
福山城 |
築城年代 |
|
慶長11年(1606) |
縄張・種別 |
|
---/平山城 |
築城者 |
|
松前崇弘 |
遺構 |
|
本丸御門・堀・石塁・土塁etc... |
復原 |
|
復元=天守閣 |
国指定 |
|
史跡 |
攻城年月日 |
|
2011/2/7 |
【歴 史】
11世紀ごろから蝦夷地に和人が定住しはじめたといわれる。
文治5年(1189)源頼朝の行った奥州征伐により平泉の藤原氏が滅亡し、多くの残党が蝦夷地に落ちのびた。南北朝時代にも戦いに敗れた者が次々と海を渡る。和人が多くなると先住民族のアイヌと居住区や魚場をめぐり抗争が起こり、やがてアイヌに勝利して争いを収め棟梁となったのが武田信広だ。若狭武田氏出身で各地を放浪し享徳元年(1452)に蝦夷に渡ったという。上ノ国(現:北海道檜山郡上ノ国町)の蠣崎氏に奇遇。数々の武功を立て養子となる。広信から5代目の蠣崎慶広は外交を駆使して天下人豊臣秀吉から蝦夷地支配を公認された。慶広は慶長5年(1600)に山間の徳山館(1400年ごろに安東氏が築城)から海に近い福山館へ移り、翌年「蠣崎」から「松前」へと姓を改めた。
享保4年(1719)には1万石の小大名に過ぎなかったが、文化4年(1807)に3万石に出世。陸奥梁川城へ転封を命じられる。江戸時代後半になると、ロシアの南下政策により蝦夷地が脅威にさらされ松前氏の力では全島と千島列島と樺太の防衛は極めて困難であると幕府が判断したためだ。そして蝦夷地は幕府直轄地となってしまった。復帰嘆願活動がなり、文政4年(1821)に松前氏は再び蝦夷に返り咲いた。復帰条件は、外国が攻めてきても対応できる城を構築することで、福山館を大改造し松前城を造った。梁川城は飛び地として松前藩が支配。城の内外に大砲37門を配置。近代戦に応じられるように計画された要塞。
明治元年(1868)、五稜郭を占拠した旧幕府脱走軍の攻撃にあい落城。藩主松前徳広は厚沢部の館城へ脱出。さらに津軽へ落延びた。脱走軍は本土より上陸した官軍に降伏。
|
|
photo:ばつまるさん |
|