寺崎城 terasaki-castle 千葉県佐倉市寺崎

登り口/城址の碑と祠/土塁の名残?(左列) 急な坂が続く/一段下がったところの郭跡?/密蔵院薬師堂(右列)


攻城年月日
2003/10/19


【構   え】
今となっては、縄張りを知る手がかりはなにもないが、現在地名などから推察すると、縄張りの核を字新小路とした平山城で、平坦部の先端基地として太田の砦を用い、上城堀・城堀の二つの隍(ほり)により敵の襲撃を阻止し、字御門前から郭内として屋形を薬師堂付近に置き、字新小路に土塁を築き、さらに南六所神社から北六所神社の線を境として油小路・相馬小路・南小路・猫坂小路・下小路・北込小路に各曲輪線を設け屋形を警備した。
そして屋形の守護新として表鬼門(北東)に神明社、裏鬼門(南西)に浅間社をそれぞれ勧諸したものおおおである。
特徴は、郎党が台上に住んでいたと思われる。
したがって田圃での農作業は台上がらおりなければならず、敵の襲撃を容易にさせる危険がある。
その危険を防ぐために屋形への道は迷路のように作られ、搦手は字舛(ます)ノ内から弁天前に降りたと思われる。
舛ノ内とは、城門の中に四角に作られた空き地の舛形からとった地名である。

【歴   史】
「千葉家実録」「千葉体系図」「千葉伝考記」などの資料を総合し、考察すれば、千葉氏代14代満胤(みつたね)の嫡男・兼胤が15代を継ぎ、その弟・胤直が16代を継いだ。
その頃千葉氏に内紛が起こり、胤直は弟の馬加康胤および同族・原胤房に攻められ、千葉城(千葉県千葉市・亥鼻城)をすてて志摩城(千葉県香取郡多古町島)に逃れたが、二男・胤宣は多胡城(千葉県香取郡多古町多古)外で自刃し、胤直もまた自刃し、胤直の嫡子・胤将は諸々に逃れ、寺崎に城を築いて居城した。
字小路の神明社は胤将が千葉城の神明社を勧諸したものである。
胤将の子・則胤のとき、馬加康胤は千葉氏宗家の乗っ取りを企て寺崎城を攻撃し、則胤は武蔵国に逃れた。
それより、康胤は千葉氏の正統を名乗り本佐倉城を築き、千葉氏の本城とし、嫡子・胤持を寺崎城に置いたのち胤持も本佐倉城に移り廃城となった。

photo:あられ


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