関宿城 sekiyado-castle 千葉県野田市関宿

城址の碑/中央の森が本丸址(左列) 本丸址より中央左に御三階櫓が臨める/御三階櫓は関宿城博物館(右列)

立地・特徴
関宿地区は関東平野の中央に位置し、古くより関東を勢力下に置こうとする地方豪族や戦国大名の間で戦いが繰り広げられていた。「関宿を征する者は一国を支配するのと同等だ!」みたいな感じ。
江戸時代には江戸と関宿は14里(56km)の距離にあるため、幕府にとって重要な外郭都市で、常に親藩・譜代大名が置かれていた。
江戸時代の末期、「久世氏」時代がもっとも栄えた時期である。
歴代藩主は幕府の重職につき、関宿では洪水対策・新田開発・産業振興(茶の栽培)に力を注いだという。
また、河岸の町(利根川・江戸川分水地点)としても繁栄し、「日光東往還」の宿場町として賑わった。
関宿城本丸跡
現在一番目立つ「御三階櫓」から500mほど南に位置し、僅かに残る。
明治以降行われた江戸川改修工事で大部分が河川の一部となってしまった。
御三階櫓(天守?)
資料によると、天守については古記録に、
”寛文十一年辛亥世喜宿...公儀御願相済富士見御櫓之形ヲ以建直ル”
との記載があり、寛文11年(1671)に江戸城の富士見櫓を模して再建された。
関宿城博物館の御三階櫓は、記録に基づき皇居内にある富士見櫓を参考に再現したものだ。


別名 --- 築城年代 長禄元年(1457)
縄張・種別 ---/平城 築城者 簗田(やなだ)成助
遺構 土塁・曲輪・移築=門(逆井城
復原 模擬=御三階櫓(関宿城博物館)
国指定 ---
攻城年月日 2003/8/24


【歴   史】
長禄元年(1457)梁田成助(古河から関宿にかけ支配下に置いていた足利成氏の家臣)が、現在の茨城県総和町水海よりこの地に移り築城、当時は平屋の館があるだけであった。
梁田氏は6代続き、戦国の動乱に巻き込まれ、北条との激戦の末落城。ときをおかず、豊臣秀吉の小田原征伐で、豊臣・徳川連合軍の手に落ちた。
天正18年(1590)徳川家康関東入封に際し、家康の実弟松平康元が関宿2万石城主として入城。
以後、松平・小笠原・北条・牧野・板倉・久世・牧野・久世と交代する。いずれも老中・京都所司代・寺社奉行とう幕府の要職を担当する譜代の有力者だ。
中でも、久世氏は重之以後明治に至るまで、関宿藩主として(23代中10代)この地を治めたが4人が老中を勤め、領民からも大いに慕われたという。
ちなみに、親藩・譜代7家23名の大名を輩出した。
明治2年(1869)版籍奉還後、城の所管は明治政府の手に移り、同5年政府から陸軍省へ、再び政府に移動、同年末に破却された。
現在残っている城址は全体の一部で、≒2/3は明治以後の河川改修により堤防の下に埋もれてしまったが、当時の城の大きさは本丸・二の丸・三の丸だけでも≒6000坪あった。

photo:あられ


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