逆井城 sakai-castle 茨城県猿島郡猿島町逆井 1262

西二曲輪全景/井楼矢倉/主殿・本丸御殿/控塀/土塁(左列)
望楼型の天守/関宿城門/観音堂/比高二重土塁/鐘堀池(右列)

二層櫓
戦国時代末期の時代背景を基に、外観に二層の容姿をもつ戦国期の櫓を復元。近世の隅櫓ではない櫓を感じさせ、6m四方の平面を持ち、入母屋望楼に下見板張りとうの外壁によって当時の景観を再現している。
○建築面積/64.39u○構造/木造○外壁/土壁・日本下見張り○軒裏/杉板目
○屋根/木葺風銅板○床面積/82.2u○最高の高さ/10.592m○最高の軒高さ/8.47m
井楼矢倉(せいろうやぐら)
戦国時代末期の形を復元。米を蒸す蒸籠(せいろう)と同じように、井形に組んだ方形材を次々と組み上げた矢倉。役割は、
@.物見矢倉として敵の動勢を監視する。
A.味方全軍の動勢を把握する。
この矢倉が大規模化したものが近世城郭の天守閣で、城主の威厳を誇示した政治的役割が加味されている。
○間口・奥行/2.73m○高さ/11.86m
関宿城
「薬医門」と呼ばれ、本柱が門の中心線上から前方にずれている。関宿城主の久世氏は、明治2年の廃藩置県により関宿藩知事となり、城も明治6年に大蔵省の所管となって廃城となった。その後、建物は民間に払い下げられたり取壊されたりしたが、この門は町内の鶴見栄助氏宅にあったものを移築した。
主殿
茨城県牛堀町で発掘調査された大台城遺跡発掘の折り、出土した主殿遺構を参考に復元されたもの。構成は正面から見て右半分が主室で、左半分が控室のような部屋となっている。主室の三間に三間の部屋構成は「九間の間」といわれるもので、室町時代中期の主殿建築の特徴的なものだ。前面には枯山水庭園が広がっている。
観音堂
大安寺(岩井市)にあったものを町が譲り受け、移築・復元。天正16年(1588)建立時の棟札と弘化2年(1845)の再興時の棟札が現存している。これにより、天正16年の上棟後、幕末に改造されたことがわかる。木柄の大きな角柱の面取り、舟肘木(ふなひじき)とうはいずれも天正期特有の様式を残していて、貴重な建築物だ。堂内は板敷き、天井は棹縁(さおぶち)となっている。
鐘堀池
天文5年(1536)3月3日、ときの逆井城主逆井常繁は、北条康方の大道寺駿河守に攻め込まれ、戦いに敗れて戦死を遂げた。このとき、常繁の奥方(または娘)が先祖代々伝わる釣鐘をかぶってこの池に飛び込んだと伝えられ、釣鐘を探そうと何人もが池を掘ったので「鐘堀池」「鐘堀井戸」と呼ばれる。どんなに旱(ひでり)でも池の水は枯れたことがなく、湧水も豊富なので城の生活水を賄うために掘られたのではないかといわれる。

※閉門時間が迫っていたため、「望楼二層櫓」まで辿り着くことがかなわなかった。また折りをみてカメラに収めてくるよ。


別名 飯沼城 築城年代 宝徳2年頃(1450)
縄張・種別 ---/平城(沼城) 築城者 小山常宗
遺構 空掘・土塁・曲輪掘
復原 望楼二層櫓/模擬・井楼/模擬・御殿/模擬 etc
攻城年月日 2003/8/24


【構   え】
飯沼に臨む標高20mの台地先端に位置し、城の北側は飯沼が洗い、西側は入江の蓮沼に接していた。
江戸時代の新田開発により湖水はなくなってしまったが、現在幅1km・南北30mにわたり名残をとどめている。

【歴   史】
宝徳2年(1450)ごろ、下野国小山祗園(栃木県小山市)城主小山義政の子常宗が逆井の地を治めることとなり、築城し「逆井」姓を名乗る。
この地、飯沼が小田原の後北条氏と佐竹氏・結城氏・多賀谷氏らの領国境であった。
天文5年(1536)当時の城主常繁(常宗の孫)は、北条康方の大道寺駿河守に攻め込まれ、戦いに敗れて戦死を遂げた。
天正5年(1577)進攻を続ける後北条氏は飯沼に城を造りはじめ、相模国鎌倉(神奈川県鎌倉市)の玉縄城主北条氏繁は、大鋸引き職人を藤沢から呼び寄せ大規模な城郭を建設した。
佐竹・下妻方面の動勢を盛んに収集、国元へ報告する。
天正6年(1578)氏繁が没すると氏舜が城代となる。
天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原城攻めで北条氏が滅ぼされると、この飯沼城も廃城となった。

photo:あられ


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