村岡城 muraoka-castle 神奈川県藤沢市村岡東 3-29

城址の碑/大庭城方面を臨む(左列)
祖は坂東八平氏である東郷平八郎の書/玉縄城方面を臨む(右列)


大庭城方面を臨む・玉縄城方面を臨む(村岡城址より)
左の写真、手前の丘の向こう5kmほど先に大庭城(藤沢市大庭)がある。
こんどは逆方向、右の写真、一番奥の丘の上が玉縄城(鎌倉市)のあったところで、ご覧の通りずいぶん高い地点に造られていたことがわかる。
玉縄城と大庭城の位置関係からみて、お互いを見通すことはできないと思われる。
が、中間にこの村岡城があれば狼煙(のろし)などの手段によって互いの連絡が取れたはず。
したがって、大庭城が北条の城として機能していたのなら(これはほぼ確実らしい)、村岡城(砦)もあったと考えなくてはならない。
:攻城者談


別名 --- 築城年代 平安中期(10世紀前半)
縄張・種別 ---/平山城 築城者 村岡五郎良文
遺構 ---
復原 ---
国指定 ---
攻城年月日 2003/9/14


【歴   史】
坂東八平氏(長尾氏・千葉氏・上総氏・秩父氏・三浦氏・土肥氏・大庭氏)とは関東に根ざした桓武平氏の支流である。
平安時代中期(10世紀前半)その八平氏の祖として知られる桓武平氏の一族に生まれた平良文(村岡五郎)がこのあたりに荘園を開いたとされる。
鎌倉幕府成立以後の村岡は鎌倉への交通の要所となり、元弘3年(1333)新田義貞による鎌倉攻めの際に激戦地になったのをはじめ、室町・戦国時代を通して村岡周辺は幾度も戦場になった。
やがて、戦乱が鎮まり、徳川将軍による治世が確立されると、村岡地区7ヶ村は藤沢宿の助郷と定められ、街道を往来する大名や武士などの荷物を運ぶための人馬を提供することを義務づけられ、明治になって助郷制度が廃止されるまで義務づけられていた。

photo:荒賀源外さん


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