箕輪城 minowa-castle 群馬県群馬郡箕郷町西明屋
minowa-castle photo
本丸址の城址の碑/搦手口に近い二の丸跡/二の丸と郭馬出を隔てる大堀切/三の丸門跡と石垣(左列)
馬出があった搦手口/二の丸と郭馬出の間の大堀切にかかる土橋/通路が5方向に分かれる「木俣」近くの土橋
/三の丸の石垣(右列)


別名 --- 築城年代 明応-永正(1492-1521)
縄張・種別 ---/丘城(一部平城) 築城者 長野尚業
遺構 郭跡・石垣・空堀・土塁 etc...
復原 ---
国指定 ---
攻城年月日 2005/8/28


【構   え/歴   史】
箕輪城は、明応-永正年間(1492-1521)に長野尚業(業尚)が築城し、子・憲業、孫・業政により強化された。
長野氏は、武田信玄・北条氏康・上杉謙信の三雄が上野国(群馬県)を舞台にして互いに勢力を争った戦国の世に、あくまでも関東管領山の内上杉家の再興を計って最後まで奮戦した武将である。
特に、長野信濃守業政は、弘治年間(1555-8)から数回に及ぶ信玄の激しい攻撃を受けながら少しも譲らず戦いぬいたすぐれた戦術と領民のために尽くした善政により、名城主として長く語り継がれている。
業政の死後、子・業盛(氏業)は父の遺志を守り将兵一体となってよく戦ったが頼む諸城は次々と武田の手に落ち、永禄9年(1566)9月29日、さしもの名城箕輪城も武田勢の総攻撃により、ついに落城するに至った。城主・業盛は
「春風にうめも桜もちりはてて 名のみぞ残る箕輪の山里」
という辞世を残し一族主従自刃し、城を枕に壮絶な最後を遂げた。長野氏の在城は60余年である。
武田氏の時代は天正10年(1582)、その滅亡によって終わり、織田信長の時代には滝川一益が一時在城したが、信長の死後は北条氏邦が城主となり、城を大改修した。
天正18年(1590)、北条氏滅亡後徳川家康は、重臣・井伊直政を12万石でここに封じて関東西北の固めとし、城下町も整備した。その後、慶長3年(1598)直政が城を高崎城に移し、箕輪城は一世紀にわたる歴史を閉じた。

箕輪上の標高は270m、面積470haに及ぶ丘城(一部平城)である。西は榛名白川の断崖に臨み、南は椿名沼、東と北とは水堀を回らして守りを固めている。
城は深さ10数mに及ぶ大堀切で南北に二分され、さらに西北から東南の中心線に沿って深く広い空堀に隔てられた多くの郭が配置されている。
御前曲輪で発見された井戸をはじめとする多くの井戸によって城の用水は完備していた。殊に法峯寺郭は、江戸時代の兵書「手鑑」にも引用されているほどすぐれた用水である。
6ヶ所の「馬出し」や「櫓」あとの石垣をはじめ各所に半ば埋もれた石垣も残されている。

photo:あられ


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