高崎城 takasaki-castle |
群馬県高崎市高松町 |
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乾櫓(左) 東門(右) |
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乾櫓
民間に払い下げとなっていたが、昭和51年市に寄進され、現在高崎城址の象徴となっている。
東門
通用門であったらしく、高崎城16個所ある門の中で、唯一くぐり戸がついているのが特徴。
明治のはじめに名主の家に払い下げとなったものを、昭和55年元の東門跡ではなく、北の乾門のそばに復元移築された。
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別名 |
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和田城 |
築城年代 |
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室町時代中期 |
縄張・種別 |
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---/平城 |
築城者 |
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和田義信 |
遺構 |
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東門・土塁・水堀 |
復原 |
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復元=乾櫓 |
攻城年月日 |
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【歴 史】
室町時代中期、”和田”と呼ばれていたこの地に、和田義盛の子孫である義信が築城した。
戦国時代も代々和田氏の居城であった。
天正18年(1590)豊臣秀吉による小田原征伐で、北条方についていたため和田氏は滅亡し廃城となる。
同年、徳川家康が江戸に移封されると、徳川四天王のひとり井伊直政を近くの箕輪城主とした。
慶長3年(1598)直政は交通の要害である和田に移り、地名も”高崎”と改め高崎城を築城した。
慶長6年(1601)直政は、前年の関ヶ原合戦で滅んだ石田三成の領地近江佐和山へ国替えとなる。
その後、酒井・松平・安藤・間部の諸氏を経る。
享保2年(1717)越後村上城から松平大河内輝忠が入封し72000石で10代続き明治維新を迎えた。
人気TV時代劇「松平長七郎江戸日記」で、長七郎の悲運の最後をとげた父に関する話があるので、ちょこっとご紹介。
寛永10年(1633)12月6日のこと、2代将軍徳川秀忠の3男忠長は3代将軍の座争いに敗れ、高崎城にお預けの身となっていたが、とうとう自刃に追い込まれた。
この事件は、家光を後押しする春日局Vs忠長を溺愛する生母お江与の方の抗争であった。
忠長のお墓は高崎市内の大信寺にある。
時に安藤重長が城主であったころとゆう。
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photo:酎隊長 |
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