岩槻城 iwatsuki-castle 埼玉県岩槻市太田

城址の碑/黒門・本丸表門/道灌橋(左列) 沼にかかる「八ツ橋」/裏門/土塁(右列)

黒門
城内のどの位置にあったかは不明だが、木材が黒く塗られていたので「黒門」と呼ばれる。
門扉の両脇に小部屋を付属させた長屋門形式で、桁行(幅)≒13m・梁間(奥行)≒3.7m、屋根は寄棟造り瓦葺き。
廃藩置県に伴なう廃城により城内より撤去され、埼玉県庁(さいたま市浦和)や県知事公舎正門、岩槻市役所の通用門として利用されたが、昭和45年に現在の場所に移築された。
柱や組材や飾り金具とうに重厚な城郭建築の面影を残している。
裏門
現状は門扉をつけた本柱と控柱で屋根を支える薬医門形式となっている。
間口≒3m・奥行≒2mで、向かって左側の袖塀にくぐり戸が付属、屋根は切妻造り瓦葺きだ。
本柱のホゾに記された墨書銘により、江戸時代後期の明和7年(1770)に当時の岩槻城主であった大岡氏の家臣・武藤弥太夫らを奉行として修造された。
廃藩置県後民間に払い下げられたが明治42年に岩槻市に寄贈され、昭和55年にこの場所に移された。


別名 白鶴城 築城年代 長禄元年(1457)
縄張・種別 ---/平城 築城者 太田道真・道灌
遺構 門・曲輪跡・石垣・土塁・堀 etc
復原 ---
国指定 ---
攻城年月日 2004/1/12


【構   え】
現在の市街地東側、元荒川後背湿地(こうはいしっち)の半島状に突き出た台地に本丸・二の丸・三の丸とうの主要部が築かれた。
沼地をはさんで北側に新正寺曲輪、南には新曲輪があり、主要部とは掘によって区切られていた。
中世城郭の遺構が残り北条氏が得意とした築城技術が随所に見られる。

【歴   史】
長禄元年(1457)太田道真・道灌父子が築いた。(一説には忍城の成田氏とも)
永禄10年(1567)三舟山合戦(千葉県富津市)北条氏Vs里見氏(里見氏勝利)で太田氏資(北条氏康の娘婿)が戦死すると小田原の北条氏が直接支配を行った。
天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐で総攻撃を受け落城。
同年、徳川家康江戸に移封されると、徳川の家臣・高力清長が城主となる。
江戸時代は江戸の北方の守りとして重要視され、譜代大名が居城。

photo:あられ


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