石垣山城 ishigakiyama-castle 神奈川県小田原市早川

南曲輪下の石垣/城址への登山口/本丸跡/枡形の鍵折れ/野面積の石垣は当時の姿を残す井戸曲輪(左列)
相模湾方面を臨む・小田原城は左の松林の陰あたり/天守台跡/櫓台跡も残る二の丸跡/いまでも水が湧き出る「淀君化粧井戸」「さざゑの井戸」(右列)


別名 石垣山一夜城 築城年代 天正18年(1590)
縄張・種別 ---/山城 築城者 豊臣秀吉
遺構 曲輪跡・井戸跡・石垣 etc...
復原 ---
国指定 史跡
攻城年月日 2005/2/10


【構   え】
最高地点の天守台が標高261.5mで小田原城の本丸より227m高い位置にある。距離はわずか3kmで眼下に城下や北条氏の本拠地が手に取るように見晴らせ、さらに足柄平野・相模灘・三浦半島・房総半島を望める。大軍の小田原城包囲軍の指揮をとるには絶好の場所だ。
「太閤の一夜城」ともいわれる名の由来は、築城にあたり、山頂の林の中に塀や櫓の骨組みを造り、白紙を張って白壁のように見せかけ、一夜のうちに周囲の樹木を伐採したためといわれる。実際には≒4万人が動員され、天正18年の4月から6月までの80日間が費やされた。もともとは笠縣山とか松山と呼ばれていたという。
縄張りは南北方向に走る尾根を軸にして、その最高地点に本丸と天守台を設け、南には西曲輪と大堀切を隔てて出城が、また北には二の丸や北曲輪・井戸曲輪とうが配置されている。このほか本丸の東には南曲輪とうの小規模の曲輪群がある。
現在は石垣や曲輪などの遺構が確認できる範囲は出城から北曲輪まで。南北≒550m・東西最大幅275m。

【歴   史】
天正17年(1589)11月、豊臣秀吉は小田原城の北条氏政・氏直父子を討伐することを決め、翌年3月1日京を発った。
豊臣勢は、同月28日、箱根の関門を厄す要衝山中城で北条勢と衝突したが、わずか半日で城を落とし難なく箱根の峠を越えてしまった。6月4日箱根湯本の早雲寺を本陣とし、22万にも及ぶ大軍で小田原城を取り囲み、海上にも水軍を配備。対する北条軍は堅牢な小田原城に立てこもり、長期戦の様相を呈した。
秀吉は小田原城の西方の小高い丘に陣城(対城)を築くことにし急ピッチで工事がすすめられた。6月26日本陣をここに移す。本格的な大要塞で関東では初の石を主とした造りである。
ところで、城方の基本戦術は、敵が長期滞陣に疲れ撤退するのを、ひたすらろう城して待つというもの。げんに永禄4年(1561)に上杉勢と同12年の武田勢の進攻を凌ぎきった経験があり、今回もこの手で...と思った。しかし、秀吉が城を築いて決意をみせたのですっかり戦意を喪失。7月5日北条氏直はみずから城外に赴き降伏した。
この後、秀吉は奥州征伐のために、陸奥黒川(現:福島県会津若松市)へと遠征。帰路に石垣山城で5日間滞在し、以後は一度も立ち寄ることはなかった。

【攻城記】
歴史公園として綺麗に整備されています。 一夜城に向かう道には「石垣山に参陣した武将たち」としてひとりひとりの案内板が100mおきくらいに立っていて城まで 道案内してくれます。 広い二の丸は特に景観が素晴らしく、その下にある井戸が圧巻です。

photo:SPOOKさん


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