早川城 hayakawa-castle 神奈川県綾瀬市早川

堀切と土塁1/城域内の谷津(左列)
堀切と土塁2(右)
※2は1を反対側から見たところ






別名 --- 築城年代 推定=鎌倉時代
縄張・種別 ---/山城 築城者 渋谷氏
遺構 堀切・土塁 etc...
復原 ---
国指定 ---
攻城年月日 2005/5/23


【構   え】
自然の地形を巧みに利用し、堀切と土塁を周囲にめぐらした「砦」的な要素の強い城郭である。
掘切の内側には、堀切を掘った土を利用して土塁を築き、さらに堅固な防御施設を作り上げている。東西及び南側は急峻ながけに囲まれ、自然の要害となっている。しかし、北側は平坦なため、幅≒11m、深さ5m以上という大規模な堀切と土塁を築いて敵の侵入を阻んでいる。

【歴   史】
古くから「城山」と呼ばれる早川城は、鎌倉時代の御家人渋谷氏の城と伝えられる。また、城郭が構築される以前は、縄文時代や古代の集落があった。
渋谷氏は平安時代の末期、ここ綾瀬を中心に渋谷荘(吉田荘)という荘園を支配し、近隣に勢力のあった武士である。「吾妻鏡」によると平治の乱(1159)に敗れて奥州に落ち延びていく源氏の重臣佐々木秀義を渋谷重国が保護したと記されている。
鎌倉時代になると、国重は源頼朝の家臣である御家人となり、子の高重が後をついだ。高重は早川次郎と名乗り、早川に拠点を置いて一族を統率したと思われる。1213年の和田合戦(和田城)で高重は和田義盛に組したため、高重をはじめ多くの一族が討たれたが、1247年、宝治合戦の後、軍功により薩摩国入来院ほかに所領をて地頭となる。
室町時代のはじめまでは綾瀬一帯に渋谷氏の支配が続いていたようだ。

photo:荒賀源外さん


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