後閑城 gokan-castle 群馬県安中市後閑

西郭群を見上げる/北郭群/本丸と二の丸へ向かう道/後閑城遠望(左列)
北第一堀切り/上州三山のひとつ「妙義山」/本丸跡/信州との国境「浅間山」(右列)


別名 --- 築城年代 文安4年(1447)
縄張・種別 ---/山城 築城者 依田忠政
遺構 郭跡・堀切・土塁
復原 ---
国指定 ---
攻城年月日 2004/3/21


【構   え】
後閑川と九十九川の合流地点ある丘陵の末端に築かれた要害の山城。
4ヵ所の堀切で区切られ、南端部の最も高い位置に60m×≒30mの本丸を置き、西側に3つの大郭と東側に2つの郭がいずれも階段状に配置され、本丸の東南と西南には枝尾根が分岐して、それぞれ堀切で分断されている。
発掘調査の結果、本丸虎口部分と二の丸櫓台上に柱穴が見つかった。

【歴   史】
文安4年(1447)信濃国(長野県)御嶽城主・依田忠政により6年の歳月をかけ完成したという。
戦国時代には北条政時の城となっていたが、甘楽郡(安中市の隣)丹生城の新田景純が攻め滅ぼした。
景純の子・信純(のちに「後閑真純」と改名)は越後国(新潟県)長尾景虎(のちの上杉謙信)の進出に際し甲斐国(山梨県)の武田氏へ下った。
天正5年(1578)真純が隠居すると、後閑の郷は長男・信重(北条高広_越後北条氏に属す)と二男・重政(小田原北条氏に属す)に分けられ、”両後閑”と呼ばれた。
天正10年(1582)、織田信長の臣・滝川一益が厩橋城(前橋城)へ入城。一益は織田方の松井田城・城代津田小平次に後閑城攻撃させ、真純以下を討ち死にさせた。
天正18年(1590)豊臣秀吉による小田原征伐の後に廃城となる。

photo:あられ


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