高遠城 takato-castle 長野県上伊那郡高遠町東高遠



大手門(城門)
追手門にあった櫓門。廃城の際民間に売却された。現在は櫓門から薬医門に形が改修されている。
桜雲橋と問屋門※桜の枝に隠れているよ。
桜雲橋はタカトウコヒガンザクラ・深緑・紅葉・雪景色と四季を通じて美しく姿を変える。問屋門はもともと城下にあったのを1948年に移築した。宿場の駅務を行う役人が詰めていた問屋に作られた。




大手門跡の碑/本丸と二の丸を隔てる堀/三の丸跡(左列)
大手門跡より高遠町の遠望/大手門跡にある藩政時代の石垣/大手門/桜雲橋と問屋門/本丸跡(右)


別名 兜山城・甲山城 築城年代 正平年間(1346-'69)
縄張・種別 ---/平山城 築城者 諏訪(高遠)信員
遺構 曲輪跡・太鼓楼・門・橋・石垣・空堀
復原 ---
国指定 ---
攻城年月日 2008/春爛漫


【構   え】
高遠城は古来より信濃国の交通の要衝。巧みに天然の地形を利用し、本丸を南の三峰川と北の藤沢川が合流する段丘の突端に置き、東から北にかけて二の丸、さらに外側に三の丸をめぐらした城郭三段の構えを持っていた。曲輪の間には深い空堀を設けている。

【歴   史】
正平年間(1346-'69)に信濃諏訪地方の国人・諏訪(高遠)信員が「高遠屋敷」を築いたのがはじまりという。高遠氏は諏訪一族であるが本家の諏訪氏とたびたび対立、頼継の代に甲斐の武田信玄と通じ諏訪頼重を滅ぼした。その後、頼継は武田氏との戦いに破れ配下となるが信用されず自害に追い込まれる。天文14年(1545)高遠氏は滅亡。
この地は武田氏の手に渡る。同16年、信玄は駿河・遠江・三河への侵出に備えて大改修を行う。信玄の五男で北信濃安曇地方の名家「仁科氏」を継いだ仁科盛信は、信玄亡き後兄の勝頼に仕え高遠城主となった。天正10年(1582)、織田信長の嫡子・信忠率いる5万の大軍を3千城兵で迎え撃つが守りきれず落城。盛信は壮絶な戦死を遂げた。
その後、城は保科氏、鳥居氏と替わり、元禄4年(1691)からは内藤氏が廃藩までの8代180年間にわたり在城。

photo:SPOOKさん


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