大室城 oomuro-castle 長野県小諸市飯綱山頂

高い土盛が数カ所あるところが旗塚/小諸市街を臨む/二の郭は高さ(1〜3m)土塁や石塁で防御されている(左列)
本城で最大の堀切は土採取場跡なので多少変形している/石垣/二の郭の物見台風櫓(右列)


別名 富士見城 築城年代 ---
縄張・種別 連郭式/山城 築城者 ---
遺構 石塁・土塁・空掘
復原 ---
国指定 ---
攻城年月日 2003/8/15


【構   え】
高峰山の広大な斜面にある独立峰(丘陵)飯綱山の山頂にあり、南側の諸(もろ)集落からは145mの斜面、北側の後平(うしろだいら)集落からは30mほどの場所。
眺めがよく、晴れていると富士山を遠くに望むことができるところから「富士見城」ともいわれる。
飯綱山全体が岩山でいたるところに石があることから、その石を利用してほとんどの郭(くるわ_曲輪)が石積みによって区画されている。この石材は、飯綱山溶岩(灰色細粒1mm以下の輝石類の散点する普通輝石紫蘇輝石岩)と呼ばれ、市内では飯綱山だけに分布する。
大室城の石垣は、きわめて原初的で、県内でもこれだけの石垣が多用されている城跡は数少ない。

【歴   史】
この時代、普段生活する場(根古屋・居館とう)と戦の際に使われる城や砦は別々になっている例が多い。
この大室城の場合もひとが住んでいたわけではなく、周辺が不穏な空気につつまれると、いろいろな豪族や武将が砦として使ったものと思われる。
築城年代・築城者ともに不明だが、初期の段階では、この地が西の滋野氏系の勢力と隣接する地域であることから、佐久の大井氏系勢力と緊張状態が生まれたころ、境目にあたる城として砦が造られたと考えられる。
天文年間(1532〜1554)甲斐国(山梨県)の武田氏が佐久地方へと進出し、統括の拠点である小諸城の前身にあたる鍋蓋城の支城として整備され、ある程度の石垣が積まれたようだ。
天正10年(1582)武田氏滅亡後、徳川・上杉・北条がこの信濃を奪い合う中、西に隣接する小県(ちいさがた)地方に勢力を持つ真田氏と徳川氏の争いとなり、家康の家臣柴田康忠が一時在陣したと伝えられる。

少なくとも、戦国時代の終わりにはこのような城郭の姿が出来上がっていたものと思われる。

photo:あられ


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