小諸城 komoro-castle 長野県小諸市古城区

三の門/空濠/天守台跡(左列) 二の門跡/一の門跡と黒門橋/大手門(右列)

三の門
元和元年(1615)創建、寄棟造り2層の城門、寛保2年(1742)大洪水で消失、明和2年(1765)に再建された。
寄棟造り、桟瓦葺きの櫓門で、1階は桁行3間(≒5.46m)北脇にくぐり戸を設け、隅金具・八双金具とうが施され、2階は袖塀に矢狭間・鉄砲狭間がつけられ戦闘的な雰囲気、桁行5間(≒9.1m)・梁間2間(≒3.6m)、内部は住宅風の部屋になっている。
二の門跡
二の丸(右)と南丸(左)の間にあった2層の門で礎石(写真中央)が残る。
二の丸には白鶴城があり、関ヶ原合戦の際徳川秀忠が上田城の真田昌幸・幸村父子にはばまれて20日間以上も逗留した。
天守台跡
自然石を利用した牛蒡(ごぼう)積の苔むした石垣。3層の天守があったが、寛永3年(1626)落雷にて焼失したのち幕府の政策により再建されなかった。
大手門(瓦門)
小諸城主仙石秀久が築造したと伝えられ、現在の門は慶長17年(1612)に建てられた櫓門。
入母屋造りの本瓦葺で、1階は桁行5間(≒9.1m)・梁間2間(≒3.6m)とし、正面中央間の鏡柱とう太い柱を用いて豪壮な構えとなっている。2階は桁行7間(≒12.7m)・梁間3間(5.46m)で垂木には”反り増し”がある。東西2室畳敷きで座敷、また入口は東側中央で板縁が設けられている。
とにかくデカイ城門なのだ。


別名 鍋蓋(なべぶた)城 築城年代 長享元年(1487)
縄張・種別 連郭式/平山城(穴城) 築城者 大井光忠
遺構 石垣・三の門・大手門
復原 武器庫
国指定 三の門/重文・大手門/重文
攻城年月日 2003/8/15


【歴   史】
起こりは、平安〜鎌倉時代にかけて活躍した木曽義仲の武将小室太郎光兼が、現城址の東側に館を築いたのがはじまり。
長享元年(1487)には大井光忠が小室氏の勢力をおさえて「鍋蓋城」を築城、その子光為がさらに出城として「乙女坂城(二の丸にあった白鶴城)」を構えた。
天文23年(1554)武田信玄に攻められ落城後、重臣の山本勘助と馬場信房に命じて信州攻略の拠点として新城を築き、小山田昌行を城代とした。
弘治2年(1556)武田信豊(信玄の弟である信繁の嫡男)が城主となる。
天正10年(1582)武田氏滅亡により、織田信長の家臣滝川一益が入城したが本能寺の変で撤退。
後北条の城となり大道寺政繁を城代とした。
関ヶ原合戦後に徳川領になると芦田康国が城代を勤め、仙石、松平憲長、青山、酒井、西尾、石川と次々城主が変わる。
元禄15年(1702)牧野氏が入封し歴代居城し幕末に至る。

”穴城”と呼ばれるのは城下町よりも低い位置にあり、浅間山の火山灰でできているため、水を用いず崩れやすい断崖が堅固な要塞となっているのだ。

明治4年(1871)廃藩置県で城郭としての役目を終えた。
明治13年(1880)神社をまつり「懐古園」として城址公園になっている。

photo:あられ


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