多聞城 tamon-castle 奈良県奈良市多門町

松永弾正久秀所用「付藻茄子茶入」
静嘉堂文庫美術館蔵



茶道大好き人間だった久秀が所用していた名器のひとつ。永禄11年(1568)上洛した織田信長に献じたため、久秀は大和国を安堵されたという。その後、豊臣秀吉・徳川家康へと渡った。
城址の碑/聖武天皇稜(左列) 大堀切跡(右)


別名 --- 築城年代 永禄3年(1560)
縄張・種別 ---/平山城 築城者 松永久秀
遺構 櫓台・土塁
復原 ---
国指定 ---
攻城年月日 2006/6/14


【構   え】
奈良の街を望む標高115Mの佐保山(眉間山)に城郭を築いて本城とした。このとき山の名前は「多聞山」に改称され、城は「多聞城」した。城主松永久秀の信仰する信貴山の多聞天(毘沙門天)に由来する。
この城に建てた4階櫓が天守の先駆けとなった。

【歴   史】
松永久秀の出自は不明である。三好長慶の家臣となって頭角を現すようになったのは、当時のひとでいうと初老にさしかかったころだという。主筋の長慶も管領職の細川氏の宰相から政局を動かすほどの力をつけてきた。ところが秀久はいつまでも長慶の下にいたわけではなく、長慶の子を毒殺・将軍足利義輝暗殺・東大寺大仏殿焼き打ち(久秀の三悪事)をやってのけ、ついには三好家をしのぐ勢力を持ち、大和国(奈良県)に進出すると永禄3年(1560)に多聞城を築いた。
永禄11年、織田信長が入京すると素早く信長に降る。元亀2年(1571)筒井順慶との戦に負けた。その順慶も信長に服属。この後から信長に反抗するようになり、反信長戦が失敗すると、天正元年(1574)に多聞城を信長に渡すこととなった。
久秀は信貴山城にたてこもり、天正5年10月10日に波乱の生涯を閉じた。
筒井順慶が大和を支配することになったが、この城は避け大和郡山城を築いたので廃城となる。

photo:ばつまるさん


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