竹田城 takeda-castle |
兵庫県朝来市和田山竹田 |
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登リ口にある公園からみた竹田城全景、結構デカイ/門、正式な登リ口はここからGO!/近道を登りつめると石垣出現(左列)
山城のくせに広い、広い、本当にマチュピュみたい/石垣/こんな具合に断崖絶壁、これならパラでも飛べそう〜(右列) |
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別名 |
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虎臥城 |
築城年代 |
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嘉吉3年(1443) |
縄張・種別 |
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梯郭式/山城 |
築城者 |
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山名持豊(宗全) |
遺構 |
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曲輪跡・石垣 |
復原 |
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模擬=山門 |
国指定 |
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史跡 |
攻城年月日 |
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2006/10/6 |
【構 え】
標高353.7Mの古城山山頂に築かれた総面積3万uの壮大な山城である。
初期の竹田城は砦(小規模な要塞)に近かった。現在のような壮大な石積みの城郭になったのは、廃城時の1600年にごく近い時期と考えられている。
縄張は、最高所の天守台をほぼ中央に置き、本丸以下、二の丸・三の丸・南二の丸が梯郭式に配置され、大手口を防御する枡形部に沿う北千畳郭と搦手口がある南千畳郭を双翼とし、さらに天守台の北西部には花屋敷と称する一郭がある。
石垣は「穴太積み」を採用。積み方は加工を施さない自然石をそのまま積んだ「野面積み」。水はけがよく崩れにくいのが特徴。
【歴 史】
嘉吉3年(1443)、室町時代の守護大名である山名宗全が築城。家臣の太田垣光景を城主とする。応仁の乱では2代城主景近が京都へ出陣した際、夜久野(現:福知山市)へ襲来した細川軍を二男の宗近が破ったという。
永禄12年(1569)羽柴秀吉軍の侵攻で一時落城はしたものの太田垣氏が取り戻す。天正5年(1577)再び秀吉の攻撃を受け竹田城はついに落城。秀吉は弟の小一郎を城代として城の整備を命じた。
天正8年桑山重晴が入城。天正13年には四国征伐とうで戦功のあった赤松広秀が入城し城を改修した。広秀は九州征伐や朝鮮の役に出役したほか、儒学者の藤原惺窩とう文化人との交流もあり、領民には産業を奨めて深く敬愛された。
慶長5年(1600)関ヶ原合戦において広秀は西軍に属す。敗北後には徳川軍として鳥取城攻めで功があったが、城下に火を放ったことで家康の忌避にふれ自刃し果てた。廃城となる。
【攻城記】
6日の横殴り雨の中、ただでは転ばずに竹田城攻めてきました。
これは凄い!日本のマチュ〜ピクチュだ!(コケル命名)もう、行き当たりばったりの、セコい城攻め専門隊員とは言わせない!(笑)
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photo:にゃごりんさん |
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